平頼盛(池大納言)
平頼盛は、平忠盛の五男で母は藤原宗子(池禅尼)、母を同じくする兄に家盛 母違いの兄弟に清盛、経盛、教盛、忠度がいる。
母の藤原宗子(池禅尼)は忠盛の継室であったため兄の家盛同様一族の中で優遇されて育ちます。
頼盛は1131年生まれで嫡男である清盛とは13歳も離れていたことから、忠盛の後継者候補にはなれず次男家盛の早世により清盛が家督を相続しました。
正妻のただひとりの男子として清盛に対抗する意識が強く、距離をおいていたようですが、1167年には従三位に昇進し平氏の中では清盛、重盛についで3人目の公卿となります。
後白河院の近臣として勢力を拡大する頼盛は翌年には参議となり平氏一門の中で確固たる地位を築いていくのです。
政治上の対立から一時参議を解任されていた頼盛ですが、復帰すると一族の重鎮として順調に出世を重ね1183年には権大納言に叙せられました。
母の邸宅「池殿」に住んでいたことから「池大納言」と呼ばれるようになり、頼盛とその子供たちを「池大納言家」と称するようになりました。
池禅尼存命中は勢力を保っていた頼盛ですが、池禅尼が亡くなると権力はしだいに清盛の子どもや時子の一族に移っていきます。
主流からはずれた頼盛は平家の都落ちに従わず後白河院を頼り京に残ることを選択します。源氏による平氏粛清が行われ、平氏派であった公家や武士の所領が没収される中、頼盛は鎌倉に下向して息子ともども頼朝に謁見を許されます。
頼朝は自分の命を救ってくれた恩人池禅尼の息子である頼盛を手厚くもてなし権大納言に復職させるのです。1185年に平氏が壇ノ浦で滅亡すると、頼盛は病を理由に出家をし、翌1186年死去します。