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平時忠 平氏にあらずんば、人にあらず

平時忠は中級貴族 平時信の嫡子として1127年に誕生しました。同じ母を持つ姉が清盛の妻となった平時子で、母違いの妹には後白河上皇の子(高倉天皇)を生んだ平滋子(建春門院)、母違いの弟には平親宗がいます。


平時忠は別名平関白(へいかんぱく)と呼ばれ、平氏一門の中では、野心家として知られ権謀術数を駆使して平安末期の朝廷内で暗躍します。


姉の時子が清盛の妻となったことで、清盛の出世とともに時忠も順調に昇進しますが、この人物は生涯で三回も流罪を経験します。


最初は、妹の滋子(建春門院)が生んだ憲仁親王(高倉天皇)を皇太子に擁立しようと考え、二条天皇を呪詛して呪い殺そうとします。しかし、この企ては失敗し官位、官職を剥奪され出雲に流罪となります。


二条天皇が崩御すると京都に呼び戻され、時子や滋子の後押しもあり、従三位 権中納言に昇進し公卿の仲間入りを果たしました。しかし、院と延暦寺の抗争に巻き込まれる形で1169年に再び出雲に流罪となります。


翌年、召還され正三位、従二位と昇進します。平氏全盛期を迎えたこのころに「平氏にあらずんば、人にあらず」という有名な言葉を残したのが時忠です。「此一門にあらざむ人は、皆人非なるべし」と時忠が発言したことが覚一本(かくいちぼん)という史料に記されています。


また、時忠は検非違使別当に三度も就任しました。検非違使は京都の治安維持を担当していましたが、時忠は都を荒らしまわっていた強盗12人を捕らえると彼らの手首を切る厳罰を与え治安維持の強化につとめます。


反平氏の気運が高まると、一門とともに都落ちし西国で勢力の回復につとめます。都落ちの際に平氏によって持ち去られた三種の神器を奪還したい後白河上皇は、時忠を介して平宗盛と交渉をしますが、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡!三種の神器のうち天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は平氏とともに海底に沈んでしまうのです。


時忠は捕虜となり都へ送られますが、三種の神器のうち八咫鏡(やたのかがみ)を守ったのは自分の功績と主張して極刑をまぬがれます。


さらに、源義経に接近し自らの地位の回復を画策しますがうまくいかず能登に流罪となります。配流された時忠は、この地で平時国という男子をもうけ、この時国の子孫が能登の名家 上時国家、下時国家とされ現在も続いているのです。