鳥羽天皇は1103年 父堀河天皇と母藤原苡子の間に誕生しました。誕生して間もなく母 苡子が他界し、父 堀河天皇も1107年に崩御したため、わずか5歳で即位し74代天皇となります。
政治の実権は祖父である白河院が握っていたため、白河院が崩御するまで政治の舞台で活躍することはありませんでした。
藤原璋子(待賢門院)を中宮に迎え、6人の皇子、皇女をもうけますが、顕仁親王(あきひとしんのう・のちの崇徳天皇)は祖父白河院と璋子(待賢門院)との間にできた不倫の子だったのです。
鳥羽天皇もそれを知っていて、陰では崇徳天皇のことを叔父子(おじご)と呼び嫌っていたとの記述が史料に残っています。それでも璋子を寵愛し続けた鳥羽天皇は、1123年には崇徳天皇に譲位をし、自らは上皇となります。
*鳥羽天皇系図
中宮である璋子の不倫、祖父白河院の絶大な権力の前に憤懣やるかたない生活を送っていた鳥羽上皇ですが、1129年に白河院が崩御すると院政を開始して人事を刷新します。
鳥羽院は藤原得子(ふじわらとくし・美福門院)を入内させ、これを寵愛し体仁親王(なりひとしんのう)が誕生します。体仁親王の誕生により鳥羽院の寵愛が璋子から得子に移ると、宮中内での力関係も逆転します。
得子は自分の子である体仁親王を皇位につけることを画策し、わずか3歳で即位させることに成功するのです。この体仁親王が75代近衛天皇となります。
このあおりを受けたのが崇徳天皇です。崇徳天皇にはすでに皇子である重仁親王(しげひとしんのう)がいたため、体仁親王に皇位を譲ることを拒んでいたのですが、鳥羽院の権力の前に屈し重仁親王に譲位して崇徳上皇となります。
自分の実子である近衛天皇の即位に成功した鳥羽院と得子ですが、期待した近衛天皇は17歳の若さで崩御してしまいます。この崩御が崇徳上皇の呪詛によるものとの噂が流れ、これを信じた鳥羽院は反崇徳の立場を鮮明にします。
もとより実子ではない崇徳の系統に皇位を譲る気のない鳥羽院は、崇徳上皇の皇子 重仁親王ではなく自分の子である雅仁親王(まさひとしんのう)を皇位につけ76代後白河天皇を誕生させるのです。
絶大な権力を握っていた鳥羽院は1156年に大病を患います。死期を悟った鳥羽院は自分の死後崇徳上皇が報復すると考え、得子と後白河天皇の味方になる公家や武家のリストを作成します。
内紛の予兆を感じながら1156年7月20日鳥羽院は54歳で崩御します。鳥羽院の死後、崇徳上皇と後白河天皇の対立が表面化し保元の乱が勃発するのです。