顕仁親王(崇徳天皇)は1119年鳥羽天皇と中宮藤原璋子(待賢門院)の間に生まれました。しかし、父親は鳥羽天皇ではなく白河院であるとする説が根強くあり、崇徳天皇に対する鳥羽天皇の仕打ちを考えると、単なる噂とはいいきれない面があります。
鳥羽天皇は少なくとも自分の子ではないと考えていたのではないでしょうか。白河院の後押しもあり、わずか5歳で75代崇徳天皇となります。1129年には関白 藤原忠通の娘 藤原聖子(ふじわらきよこ)を后に迎えます。
ふたりの夫婦仲は良かったようですが、子には恵まれず別の女性との間に重仁親王(しげひとしんのう)が誕生します。
天皇の外祖父になり損ねた関白 藤原忠通は崇徳天皇との間に溝ができ、やがてふたりは争うことになります。
白河院が崩御し、鳥羽上皇が院政を開始すると鳥羽院は白河院の治世でたまっていた鬱憤を晴らすかのように報復人事を行い、白河院と関係の深かったものを遠ざけ、人事の一新を行うのです。
後ろ盾となっていた白河院を失った崇徳天皇の立場は弱く、鳥羽院は藤原得子(美福門院)との間に生まれた体仁親王(なりひとしんのう)を皇位につかせるべく崇徳天皇に譲位を迫ります。
自分の皇子である重仁親王に皇位を譲り、自らは上皇となって院政をしくことを考えていた崇徳天皇はこの要請に抵抗します。院政は自分の子や孫を天皇にして、自らは上皇、法皇となり政治の実権を握るシステムです。
自分の子である重仁親王に譲位をすれば、やがては自分が院政を開始して権力を握ることができますが、弟である体仁親王が即位してしまうと院政ができなくなるからです。
そこで、鳥羽院は体仁親王を崇徳天皇の養子とし、やがては重仁親王に譲位することを内々に伝えます。鳥羽院の強引な手法の前にやむなく譲位をした崇徳天皇は上皇となるのですが、即位した体仁親王(76代近衛天皇)は17歳で早世してしまうのです。
約束どおり重仁親王が即位できると考えた崇徳上皇ですがその期待は見事に裏切られます!鳥羽院は実子であり、崇徳の母違いの弟で当時29歳であった雅仁親王(まさひとしんのう)を天皇(77代後白河天皇)にしてしまうのです。
さらに雅仁親王の皇子 守仁親王(もりひとしんのう)が皇太子になったことで、重仁親王の即位は絶望的となるのです。
このような仕打ちを受けながらもなんとか我慢をしていた崇徳上皇ですが、鳥羽院は自分の死後崇徳上皇と後白河天皇が争うことを予想し、得子(美福門院)と後白河天皇の味方を増やす画策をします。
1156年 重病となった鳥羽院を見舞おうとした崇徳上皇は面会を拒絶され、同年鳥羽院がついに崩御すると後白河天皇は自分だけで葬儀を済ませ、駆けつけた崇徳上皇を追い返します。
後白河方の挑発に我慢の限界に達した崇徳上皇は、兄である藤原忠通と対立していた藤原頼長を味方につけ挙兵しここに保元の乱が勃発します。
しかし、事前の画策により後白河方が兵力において圧倒的に有利であり、崇徳側についた武家は源為義、為朝、平忠正らわずかな手勢しかなくあえなく敗北します。
東山の如意山に逃れた崇徳上皇は剃髪して弟がいる仁和寺に身を寄せようとしますが、関わりをおそれた弟の覚性法親王(かくしょうほっしんのう)は後白河方に知らせたため拘束されます。
崇徳上皇は讃岐に配流と決まり、付き従うものは数名のみというありさまでした。配流の地讃岐では無人島にある屋敷で生活をしていたようですが、四方を高い壁に囲まれ門には鍵がかけられ、景色さえもみることができなかったといわれています。
都に戻ることを願っていた崇徳上皇ですが、朝廷は謀反人である崇徳を許すつもりはなく、そのことを知った上皇は「我、生きていても無益なり」と叫び 以後、爪や髪を整えることをぜず延ばし放題となり凄まじき形相となります。
配流の地で失意の9年を送った崇徳上皇は、1164年46歳でこの世を去ります。崇徳上皇が亡くなって以降、二条天皇の崩御や飢饉が頻発したことから、これらの災いは「望郷の鬼」と化した崇徳上皇の祟りである!と人々は恐れるようになります。
朝廷は怨霊となった崇徳上皇を鎮めるため、1177年「崇徳院」の追号を贈ります。怨霊のイメージが強い崇徳上皇ですが、一方では四国の守護神として崇敬されていたという面もあります。
明治天皇は配流の地で亡くなった崇徳上皇と淳仁天皇を祀る白峯神宮を1868年に創建しました。