平重盛(小松内大臣)
平重盛は1138年 平清盛の嫡男として誕生しました。母は高階基章の娘、母を同じくする弟に基盛 母違いの弟に宗盛、知盛、重衡 妹に徳子、盛子、完子などがいます。子供は嫡男である維盛の他に資盛、清経、有盛、師盛、忠房がいます。
重盛は保元の乱で源為義と、平治の乱では源義平と激戦を展開し活躍をしました。平家物語では重盛を温厚で冷静沈着な人物として描いています。権力を掌中に治め独裁的になっていく父清盛!誰も清盛に逆らうことができない状況の中、度々諫言し清盛の行動を諌める人格者として重盛は登場します。
実在の重盛は平家物語の中に出てくるような人格者であったかどうかわかりませんが、清盛の嫡男としてそれなりの発言力があり、清盛も跡継ぎである重盛の意見を無視することはできなかったようです。
1177年に後白河法皇の近臣たちが平氏打倒の謀議を企てていることが発覚します。この鹿ヶ谷事件の首謀者のひとりが藤原成親でした。藤原成親は重盛の妻の兄であり、さらに成親の娘は重盛のふたりの息子 維盛、清経の妻だったのです。
重盛は、この鹿ヶ谷事件の影響で父清盛との間に距離を置くようになります。平家一門では継室 時子の子である宗盛、知盛、重衡らの勢力が重要な地位を占めるようになります。重盛と母を同じくする弟 基盛は早世してしまったため有力なバックアップのない重盛は嫡男としての立場も危ういものになっていました。
病を発症した重盛は政治の表舞台に姿を見せなくなり、自宅に籠もりがちになります。1179年には病がさらに悪化し、とうとう返らぬ人となってしまうのです。死因は胃の病気(胃癌)であったようです。
重盛が生きていたら平氏は滅亡しなかったのか?重盛が平家物語に描かれているような温厚で冷静沈着な武将であったなら、結果が違っていたかも知れません。しかし、武家による、武家のための政権を目指した頼朝と、その元に集まった東国の武将たちの勢いを貴族化した平氏が止められるとは思えず、結局平氏は滅亡する運命にあったのではないでしょうか・・・