鹿ケ谷の陰謀
鹿ケ谷の陰謀は1177年平氏打倒を企てた後白河法皇の近臣たちが清盛によって処罰された一連の事件です。
保元、平治の乱を経て朝廷内で実力をつけた清盛は1167年に太政大臣に登りつめます。清盛を筆頭に平氏一門は重要な要職につき、全国の知行国の半分を治めるなど全盛期を迎えます。
しかし、時子の妹で後白河法皇の寵愛を受け高倉天皇を生んだ滋子(建春門院)が1176年に病没します。院と平氏のつなぎ役となっていた建春門院の死により後白河法皇と清盛の対立が表面化します。
武力と財力を背景に自らの政策を推し進める清盛と、清盛の専横を抑えようとする後白河法皇!法皇の近臣たちは度々俊寛の山荘に集まり密議を重ねます。始めは権力を増す平氏一門に対する不満を言い合う程度だったようですが、次第に平氏打倒、清盛暗殺へとエスカレートしていったようです。
密議に参加したのは藤原成親、藤原成経(成親の子)、俊寛、西光、平康頼、多田行綱ら後白河法皇の近臣で、祇園御霊会に乗じて挙兵し清盛を討ち取る計画が練られました。
*流罪となった僧 俊寛
しかし、密議に加わっていた多田行綱が裏切り清盛に通報したためこの計画が露見し関係者が逮捕されることになるのです。
逮捕された者たちは厳しい取調べが行われましたが、西光は清盛の悪行を非難し「成り上がり者」とののしったため拷問を受け口を裂かれたうえ朱雀大路に引き出され首をはねられました。
藤原成親は備前の国に流罪、俊寛、藤原成経、平康頼は鬼会ヶ島(きかいがしま 薩摩の国硫黄島)に流罪、陰謀を通報した多田行綱も安芸の国へ流罪となります。藤原成経、平康頼、多田行綱は後に赦免されますが、俊寛は許されず配流先で落命します。
清盛ら平氏一門にとって衝撃だったのはこの密議に藤原成親と成親の子である成経が加わっていたことです。
藤原成親は鳥羽院の近親として権力を握っていた藤原家成の子です。清盛の継母池禅尼と家成は従兄弟であったことから、池禅尼は清盛と家成の関係を強固なものにするよう尽力します。
家成のバックアップにより清盛は出世を重ね、清盛は恩人である家成の娘を嫡男重盛の正室に迎えます。さらに成親の娘を重盛の子である維盛と清経の正室にするのです。
*藤原成親と平重盛 姻戚関係
このように家成の一族と婚姻を結び強固な関係を築いていっただけに、鹿ケ谷の陰謀の首謀者に成親と成経の名があったことに驚きを隠せませんでした。
それだけに清盛の怒りは凄まじく、重盛の赦免嘆願を聞き入れることもせずに成親と成経を流罪にします。さらに、成親は配流先で殺害されています。その殺害方法も酷く残忍で、崖下に先の尖った杭を何本も打ち込み、崖上から成親を突き落とし串刺しにしたと伝えられています。
*串刺しにされる藤原成親 平家物語絵巻
この鹿ケ谷事件により近臣を一掃された後白河法皇は反平氏の色を強め、やがて以仁王の挙兵へとつながっていくのです。