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明智光秀の前半生は謎だらけ!いつ生まれて何歳で死んだのか?

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明智光秀の生まれた年、没年、享年55歳か67歳か?

2020年大河ドラマの主人公として注目を集める明智光秀ですが織田信長に仕えるまでの経歴は不明できわめて情報が少ない人物といえます。生まれた年も父親の名前も諸説ありよくわかっていません。

これほどの有名人にもかかわらず極端に情報が少ない要因のひとつは明智一族が滅んでしまったことにあります。

主君織田信長を本能寺で討ち果たすも、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れたことで光秀自身も命を落とし、その後の追討戦で一族や重臣の多くが死んでしまったのです。

関与を疑われたくない公家や大名たちは光秀とのやりとり(書簡など)の記録を処分してしまったと思われます。

光秀がいつ生まれたのかを直接記す史料は見つかっていませんが、没年については「明智軍記」と「当代記」に記載があります。

「明智軍記」は「五十五年ノ夢」、「当代記」は「明智年六十七」と記していて、それぞれ享年を55、67としています。

逆算すると光秀は1528年もしくは1516年生まれということになります。1516年なら織田信長より18歳年上、1528年なら6歳年上になります。

「明智軍記」の1528年説が通説となっていますが、江戸時代に編纂された軍記物の多くは創作された読み物であり史料としての価値は低いとされています。

1528年説を支持する専門家も「明智軍記」の信用性には疑問を持っているようですが、かといって1516年説をとると光秀は67歳で本能寺の変を起こしたことになります。

当時としては高齢であり、丹波攻略を担当しながら大和、播磨、摂津など各地を転戦するハードワークをこなしていたことを考えると67という年齢に違和感を持つ専門家が多いのでしょう。

江戸時代前期に編纂された「川角太閤記」には光秀が謀反を起こした理由として「老後の思い出に一夜でも天下に名をとどろかせたいと思ったのだ」との記載があり、光秀が高齢であったことを思わせる内容となっています。

「事実は小説よりも奇なり」という言葉もあるように、私たちの想像や創作では思いもつかないような奇妙な出来事が現実の世界ではしばしば起きます。そう考えると、光秀高齢説もあながち「ない」とは言い切れない部分があります。

光秀の生年を確定するには裏付けとなる新たな史料の発見を待つしかありません。