美濃国守護代斉藤氏・斎藤妙椿(みょうちん)、妙純(みょうじゅん)の活躍
美濃国で斎藤といえばほとんどの方が斎藤道三を思い浮かべるのではないでしょうか。
しかし、道三の元の姓は長井です。道三の父新左衛門尉が美濃国守護代 斎藤氏の重臣 長井氏の一門となり、道三の時代に長井氏を乗っ取り、さらに斎藤氏の名跡を継いだのです。
では、美濃国守護代斎藤氏とはどのような一族だったのでしょうか?
鎌倉時代末、討幕戦で足利尊氏と行動をともにした土岐頼貞(ときよりさだ)は建武の親政で美濃国の守護に任命されます。以後、美濃守護職は代々土岐氏が継承しました。
斎藤氏は美濃国の目代(もくだい)を務める家柄だったとされ、土岐頼貞の時代に土岐氏に従属したと考えられています。
==斎藤妙椿の活躍==
室町時代中期(1444年)斎藤宗円(さいとうそうえん)が美濃国守護代富島氏を攻め国外に追い出し守護代の座を独占します。
1450年宗円は京で何者かの襲撃を受け落命しますが、守護代は子の利永(としなが)が継ぎ、代々斎藤氏が継承しました。
利永が1460年に病没すると嫡男の利藤が守護代に就任しますが、年が若かったため叔父(利永の弟)である妙椿(みょうちん)の後見を受けました。
1467年応仁の乱が勃発すると、土岐氏は山名宗全(やまなそうぜん)の西軍に属します。
在京する守護 土岐成頼(しげより)と守護代斎藤利藤にかわり、実質的に美濃国を切り盛りしていたのは斎藤妙椿でした。
応仁の乱で混乱する美濃をまとめ侵入してくる敵を討った妙椿の名は京でも知られるようになります。
同じ西軍の六角氏を支援するため、近江に遠征した妙椿は東軍の京極氏を破り武将としての能力の高さを示しました。
1480年妙椿が病没すると、妙椿の子妙純(みょうじゅん)と利藤の間で争いが起こります。
妙椿には実子がいなかったため利永の子利国(としくに)を養子に迎えていました。利藤と利国は母違いの兄弟になります(利藤が兄、利国が弟)
政争に勝利した利国は妙純と名を改め妙椿の後継者であることをアピールして権力を掌握しました。
*斎藤妙椿・妙純系図
==船田合戦==
守護代斎藤氏の争いと時を同じくして守護土岐氏にも後継争いが起こります。土岐成頼の嫡男政房と弟の元頼が争ったのです。
嫡男政房を差し置いて弟の元頼に家督を継がせようと成頼が画策したことが発端となりました。
政房を支持する斎藤妙純に対し元頼側には成頼と斎藤利藤、斎藤氏の重臣である石丸利光がつきます。
さらに、近江の京極氏が政房側に、同じく近江の六角氏が元頼側につき、隣国を巻き込む大きな政争となりました。
石丸氏の居城 船田城で合戦が行われ政房と妙純が勝利を収めます。敗れた元頼勢はその後も抵抗を続けますが、最終的に元頼と利光が自害し土岐氏の家督は政房が継ぎ、斎藤利藤は隠居を余儀なくされました。
*船田合戦相関図
==斎藤妙純の死と守護代斎藤氏の没落==
船田合戦に勝利した妙純の権勢はますます高まり美濃国で並ぶ者のない実力者となりますが、守護代の地位には就かなかったようです。
守護代家の家督は利藤の系統が継ぎ、実権を掌握した妙純が国政を運営するという体制がとられました。
斎藤氏の全盛期を築いた妙純に突然不幸が襲い掛かります。
船田合戦で敵対した六角氏を攻めるため近江に遠征した妙純でしたが、美濃勢の侵攻と戦争の長期化に憤慨した近江の馬借らが土一揆を起こしたのです。
不意を突かれた妙純は一揆勢との戦闘中に命を落とします。多くの戦死者を出した美濃勢は総崩れとなり敗走しました。
実力者斎藤妙純の死は美濃国内に混乱を招き、この混乱に乗じ頭角を現したのが、斎藤氏の重臣 長井氏であり、その長井氏の一門に取り立てられた新左衛門尉と道三父子の下剋上へと進展していくのです。
道三以前の斎藤氏を前斎藤氏、道三以後の斎藤氏を後斎藤氏と呼んでいます。