長良川の戦い斎藤高政(義龍)に敗れ鼻を削がれた斎藤道三
*長良川の戦い 斎藤道三 VS 斎藤高政(義龍)
弘治元年(1555年)斎藤高政(義龍)がふたりの弟(孫四郎と喜平次)を殺害する事件を起こします。
知らせを受けた斎藤道三はすぐさま城下に火を放ち山県に向かいました。山県は美濃国山県郡の大桑城だと考えられています。
大桑城に退いた道三は高政との戦いに備え兵を集めますが、味方となる国衆はことのほか少なく劣勢に立たされます。
それでも兵を挙げた道三は鶴山に陣を構えると弘治2年4月(1556年)長良川で高政軍と干戈を交えました。
長良川の戦いに関する史料は少なく不明な点が多々ありますが、ここでは「信長公記」「翁草」「美濃国諸旧記」を元に戦いの様子をお伝えします。
両者の兵力は道三がおよそ2千、高政が1万数千と数の上では高政が圧倒していました。
4月20日高政が兵を動かすと、これを見た道三も鶴山を下り、両軍が長良川で対峙します。
高政勢の先鋒竹腰道塵の兵600が川を越え道三の旗本に切りかかり戦端が開かれると、両軍の間で激しい戦いが展開されます。
乱戦の中、竹腰道塵を討ち取った道三は床几に腰を掛け満足そうに笑みを浮かべますが、高政自ら兵を率いて川を渡ると、高政の陣から長屋甚右衛門が、道三の陣から柴田角内が進みでて一騎打ちとなり柴田が晴れがましい手柄をたてました。
双方の軍が入り乱れ、火花を散らし、しのぎを削る激しい戦いの中、長井忠左衛門が道三に組みつき生け捕りにしようとしたところに、荒武者の小真木源太が走り寄り道三のすねを打ち払います。小真木が道三を押し伏せ首を取りました。
長井忠左衛門はのちの証拠にと道三の鼻を削ぎその場から立ち去りました。
合戦に勝利した高政が首実検をしているところに道三の首がもたらされます。鼻を削がれた道三をみた高政は親を殺したのは自分の罪であるとして出家を決意します。
舅である道三の援軍要請を受けていた織田信長は自ら兵を率いて大良(たら)に陣を構えていました。
首実検を終えた高政は信長を攻撃すべく大良に兵を向けます。両軍の足軽が戦いを始めたところに道三討死の一報がもたらされます。
退却を決断した信長は自ら殿となり敵の騎馬武者めがけ鉄砲を放つと、美濃勢もそれ以上近づこうとはしませんでした。
味方の兵が退いたことを確認した信長は、残しておいた舟にのって川を渡り退却したのです。