井伊直虎の生家井伊氏は遠江国引佐郡に勢力を築いた一族です。浜名湖の北岸には井伊氏から枝分かれした支族が多く分布しています。
井伊氏の出自については諸説ありますが、江戸時代に編纂された「井伊家伝記」や「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」が通説の根拠となっています。
「井伊家伝記」は、彦根藩の家老が井伊家の菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ)の住職祖山(そざん)に依頼して編纂した井伊氏の歴史です。
「寛永諸家系図伝」と「寛政重修諸家譜」は徳川幕府によって編纂された大名家と幕臣の家譜です。
幕府は3代将軍家光の時代(寛永期)と11代将軍家斉の時代(寛政期)に家譜の編纂を行っています。
家譜とはその家の系譜、系図、由緒、事績などを記録したものです。幕府は大名家と旗本以上の幕臣に家譜の提出を命じました。
提出された家譜をひとまとめにしたものが寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)と寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)です。
これらの史料によると、井伊氏は藤原冬嗣の六男 藤原良門(ふじわらのよしかど)の系統で、共資(ともすけ)の代に遠江に移り住み、共保(ともやす)の代から井伊を名乗ったとしています。
つまり井伊氏は藤原氏の流れをくむ名門だと主張しているのです。
戦国時代を生き残り江戸時代に大名となった家の多くが系図をつくりかえています。元々出自が不明な場合もあり、系図の改ざんは珍しいことではありませんでした。
先祖が「源平藤橘」などの名門であれば、家の格は上がります。源氏や平氏、藤原氏、橘氏など古くから栄えていた氏族は一族が各地に移り住み、傍流などを含めると相当な数にのぼります。
それらの家から系図を手に入れてつくりかえることで、自分の家は名門の出であると体裁を繕ったのです。
井伊氏に関しても本当に藤原氏の系統かどうか疑わしい部分もあります。
ただし、古い史料の中に井伊氏に関する記述が見られることから、平安時代や鎌倉時代にはすでに遠江国である程度の勢力をもっていた一族であると推測することができます。
では、井伊氏はどのような経緯をたどって戦国時代まで生き残ったのでしょうか?井伊氏が登場する最も古い史料は「保元物語」だとされています。
「保元物語」は1156年に起こった保元の乱を題材にした軍記物語です。
源義朝の軍勢の中に「井八郎(いのはちろう)」の名があらわれ、この井八郎が井伊氏だと考えられています。
また、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には度々「井伊介」という名前がでてきます。
「介」とは律令制の四等官 長官 (かみ) 、次官 (すけ) 、判官 (じょう) 、主典 (さかん) を意味します。官庁によって字は異なりますが、読み方はすべて同じです。
国司の場合は守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)となります。「井伊介」の「介」は国司の中では長官である守に次ぐ官職です。
朝廷の力が強かった平安時代には、朝廷が国司を派遣して国衙領を統治していましたが、鎌倉時代になり武士の力が強くなると、幕府が派遣した地頭によってその職域が脅かされます。
さらに室町時代になると強力な力を持った守護大名や戦国大名の登場により、国司の権限は有名無実化され、守、介、掾、目などの官職も名誉職的なものとなります。
去年大河ドラマで注目を浴びた真田昌幸は安房守(あわのかみ)ですが、これは朝廷から正式に与えられた官職ではなく、昌幸が勝手に名乗っていたものです。
豊臣秀吉に臣従してから、秀吉のとりなしで朝廷から正式に安房守に任命されました。
「井伊介」の「介」は朝廷から正式に与えられたものか、それとも勝手に名乗っていたものか定かではありませんが、鎌倉時代には遠江国である程度の勢力を保持していたことが伺われます。
鎌倉時代の井伊氏の活動に関しては、「吾妻鏡」以外の史料に記載がないため詳細は不明です。
鎌倉時代末期から室町時代初期にかけての動乱期(南北朝の動乱)になると、井伊氏の名前が登場してきます。
遠江の国人たちも他国と同様に南朝と北朝に分かれ、井伊氏は後醍醐天皇の南朝方となります。
後醍醐天皇の皇子である宗良親王を井伊谷に迎え入れると、足利氏の一門である今川氏と激しい戦いを展開しますが、後醍醐天皇の崩御により勢いを失った南朝方は各地で敗戦を重ね次第に北朝に押されていきました。
遠江でも北朝勢が有利になりますが、北朝方の内部抗争(観応の擾乱)が勃発して戦況は膠着します。
その後、井伊氏は今川了俊の九州遠征に帯同しています。どのような経緯で今川軍に加わったのかは不明ですが、遠江の守護であった今川氏に従い九州で勢力を拡大していた懐良親王(かねよししんのう)軍と激しい戦いを行いました。
今川了俊は九州を平定しますが、ともに戦った井伊氏を含む遠江の国人たちには大きな犠牲がでたといわれています。
その後、遠江の守護には斯波氏が任命されますが、これを不服とする今川氏との間に争いが起こり、遠江の国人たちも巻き込まれていきます。
応仁の乱後に今川家の当主となった今川氏親(いまがわうじちか)は、伊勢宗瑞(北条早雲)の支援を受け遠江から斯波氏の勢力を駆逐すると、守護の座を奪い返し遠江を支配下に組み込みます。
井伊氏は斯波側につき今川と戦ったようですが、降伏して今川氏に従属することになります。
今川氏親が1526年に死去すると、嫡男の氏輝(うじてる)が今川家の家督を継ぎますが、その氏輝が1536年に急死すると、当主の座をめぐり家督争いが起こります(花倉の乱)
争いを制した義元が今川家の家督を継ぐと、武田氏に対抗するため領国の統治をさらに強化していきます。
井伊氏が統治していた井伊谷にも今川家の家臣が送り込まれ離反しないよう監視を行います。
隙あらば領地を取り上げようとする今川と、従属しながらも反今川の姿勢を見せる井伊氏!
このような緊張した関係が続く中で井伊直虎が誕生したのです。