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今川義元が井伊直満、井伊直義を誅殺!

井伊直満(いいなおみつ)・井伊直義(いいなおよし)系図
*井伊直満、井伊直義系図


1544年井伊直満(いいなおみつ)と井伊直義(いいなおよし)が今川義元に呼び出され駿府で誅殺される事件が起こります。


直満と直義は井伊直平の子で、井伊直虎の祖父直宗の弟にあたります(直虎の大叔父)


なぜ直満と直義が処刑されたのかは謎となっています。


「寛政重修諸家譜」では、この事件は井伊家の家老である小野政直の謀略であると説明しています。


■「寛政重修諸家譜」の要約。
直盛(直虎の父)に男子が生まれなかったときは、直満の子直親を養子にして、井伊家の家督を継がせる約束を交わしていた。
しかし、直盛の家臣小野和泉守は直満と不仲であり、この約定に不満を抱いていたため、今川義元に直満、直義兄弟が謀反を企んでいると讒言した。
これを信じた義元は駿府に二人を召し出し糾問した。
二人は弁解したが、聞き入れられず殺害された。


「井伊家伝記」では、直満と直義が義元の命令を無視して武田氏と戦う準備をしていたため誅殺されたと説明しています。


■「井伊家伝記」の要約。
天文十年の頃より、武田信玄の家臣が井伊領を押領し始めたので、井伊直平の命令で直満と直義兄弟が戦う準備をしていた。
このことを直盛の家臣小野和泉守が察知した。
養子の件で遺恨を抱いていた小野和泉守は、密かに駿府に下向して義元に讒言した。
義元はすぐに二人に召喚状を送った。
直満と直義は駿府に下向したが、天文十三年十二月二十三日に生害(自害)した。


天文十年は1541年、天文十三年は1544年ですが、武田信玄が父信虎を追放して家督を相続した年が1541年です。


1542年には諏訪頼重を討ち信濃への進出を開始していますが、信濃の大部分を手に入れたのは1559年のことです。


井伊直満、井伊直義が今川義元に殺害された事件・遠江国井伊谷
*遠江国井伊谷


信玄の領国甲斐から遠江に侵攻するには、信濃もしくは駿河を通る必要があります。


駿河は今川義元の領国なので入ることはできません。また、信濃への侵攻を始めたばかりの信玄が信濃を抜けて遠江の井伊谷に手を伸ばすことは現実的ではありません。


「井伊家伝記」に記されている「天文十年の頃より、武田信玄の家臣が井伊領を押領し始めた・・・」という記述には無理があります。


今川義元は、直満と直義を誅殺しただけでなく、直満の嫡男 直親の殺害まで命じています。


このことから、直満と直義の殺害は、井伊氏の中にいる反今川派の一掃を狙った義元の策略であるとする説もでています。


井伊氏の出自でも説明しましたが、井伊氏と今川氏は南北朝の時代から敵対関係にありました。今川氏に服従したことに不満を抱く一派がいたとしても不思議はありません。


直親の養子問題で親今川派の小野和泉守と、反今川派の直満、直義が対立したことを契機に義元が反今川派の一掃に動いたとも考えられます。


この説を裏付ける史料などは今のところ発見されていないのであくまで推測の域をでません。


直満、直義誅殺事件によって直親は逃亡を余儀なくされ、許嫁(いいなずけ)に去られた直虎はやがて出家の道を選ぶことになります。