1544年 井伊直満(いいなおみつ)が今川義元に殺害される事件が起こります。
義元は直満の嫡男 亀之丞(かめのじょう)も殺害するよう小野政直(おのまさなお)に命じます。
「井伊家伝記」では、亀之丞と今村藤七郎の逃亡を以下のように記しています。
駿河から帰国した小野政直が、「亀之丞を殺せ!」との義元の下知を伝えます。
これを聞いた直満の家老 今村藤七郎(いまむらとうしちろう)が、かますの中に亀之丞を隠し背負いながら井伊谷山中の黒田郷まで逃れます。
さらに渋川の東光院(とうこういん)まで逃れ身を隠しますが、小野政直の探索が厳しく、潜んでいることが難しいと判断した藤七郎は、密かに龍潭寺(りょうたんじ)の南渓和尚に相談します。
南渓和尚は自分の師である黙宗和尚ゆかりの寺である信濃国伊那郡市田郷の松源寺(しょうげんじ)に、両名を落とすことにしました。南渓和尚は事の詳細を手紙にしたためます。
松源寺は両名を受け入れ、、亀之丞と藤七郎は十二年間隠れ続けました。
叺(かます)とは、藁(わら)で編んだ敷物(むしろ)を二つ折りにして縁を縫った袋のことです。当時はかますの中に穀物や塩などを入れて貯蔵していたようです。
今村藤七郎はかますの中に亀之丞を入れて背負い険しい山中を逃亡しました。
井伊直政の父直親(亀之丞)の危機を救った今村藤七郎は忠臣であり、生きていれば名前が残っているはずですが、藤七郎のその後についてはよくわかっていません。
1562年 井伊直親が今川氏真に誅殺されたとき一緒に殺害されてしまったのかもしれません。