武家の家紋は、戦場においては自軍をあらわす目印となり、平時においては家の格、権威の象徴として用いられました。
家紋は一家に一つと思われがちですが、大名家の場合複数の家紋を用途に応じて使い分けしていました。
井伊家の家紋は二種類あり、定紋(じょうもん)が橘紋(たちばなもん)で替紋(かえもん)が井桁紋(いげたもん)です。
定紋は正式の紋で公式の場で使用します。表紋(おもてもん)とも呼ばれます。
替紋は非公式の場で使用する紋で裏紋(うらもん)とも呼ばれます。旗印などに使われますが、用途については特に決まりはないため、それぞれの大名家のルールで使い分けされていました。
井伊家の家紋はなぜ「橘」と「井桁」なのでしょうか?それは井伊家の祖先共保(ともやす)が井戸から生まれたという伝説に由来します。
「井伊家伝記」と「寛政重修諸家譜」では共保の出生を以下のように説明しています。
1010年の正月元旦、遠江国井伊谷八幡の神主が社頭にお参りしたところ、井戸の中から生まれたと思われる男の子(共保)を発見しました。
その容貌は美麗で眼力が強く「この子は普通の子ではない」と感じた神主は男の子を抱いて家に戻ります。
神主はわが子のごとく養育し、男の子は7歳に成長しました。この話しを聞いた備中守共資(ともすけ)は、その子を養育して自分の娘と結婚させます。
壮年になった共保は器量に優れ武勇も絶倫だったので、郷の人たちは共保に従い、のちに出生の地である井伊谷に移り住みました。
以上が共保の出生伝説です。
藤原北家の系統である藤原共資が遠江国敷智郡村櫛に移り住み、井戸から生まれたといわれる男の子(共保)を養育して自分の娘と結婚させます。
共保は井伊谷に移り井伊氏を名乗ります。この共保が井伊氏の祖先だと説明しています。
「井伊家伝記」と「寛政重修諸家譜」は、江戸時代に彦根藩主となった井伊氏が、自分の家の家譜や歴史をまとめたものです。誇張やつじつまの合わない部分も見られます。
共保の出生伝説で井伊家が主張しているのは、井伊氏は藤原北家の流れをくむ名門の血筋であるということです。
井戸から生まれたというのも、先祖を神秘的な存在にする意図があったのかもしれません。
共保が出生した井戸の脇に橘が茂っていたので、井伊家の定紋は「橘」になり、井戸から生まれたという言い伝えから替紋は「井桁」となりました。
井伊氏の橘紋は「彦根橘 ひこねたちばな」「井伊橘 いいたちばな」と呼ばれています。