亀之丞(井伊直親)と青葉の笛(あおばのふえ)
1544年井伊直満(いいなおみつ)と井伊直義(いいなおよし)が今川義元に誅殺されました。
義元は直満の嫡男亀之丞(井伊直親)の殺害も命じたため、直満の家臣今村藤七郎(いまむらとうしちろう)は亀之丞とともに逃亡します。
突然の出来事に着の身着のまま故郷を離れることになった亀之丞は、途中にある寺野八幡(現在の六所神社)に参拝して無事を祈願しました。
南信濃の松源寺(しょうげんじ)に辿り着いた二人は、およそ10年間この地で身を隠すことになります。
1554年小野政直(おのまさなお)が死去したことで亀之丞の帰郷が実現しました。井伊谷に戻ることができた亀之丞は寺野八幡に立ち寄り、お礼として笛を奉納しました。この笛がのちに「青葉の笛」と呼ばれるようになります。
「青葉の笛」は井伊谷から脱出するときに持って行ったものなのか、松源寺で生活をしているときに手に入れたものなのかは不明ですが、息苦しい隠遁生活を送る中、笛を吹くことで淋しさを紛らわせたのでしょう。
亀之丞の青葉の笛は、現在六所神社が所蔵しています。去年(2016年)4年ぶりに一般公開されたそうです。
■青葉の笛伝説
青葉の笛の伝説はいくつかありますが、一番知られているのは敦盛でしょうか。一の谷の戦いで、源氏の熊谷直実に討たれた平敦盛が持っていた笛ですね。
鵯越の逆落としで有名な一ノ谷の戦いで敗れた平氏は海上に逃れます。熊谷直実の「卑怯者」という言葉を聞いた平氏の若武者が引き返し、直実と一騎打ちをして敗れます。
直実は若武者の首をとろうとしますが、年齢があまりに若く態度も立派であったため名を聞きますが答えません。
直実は逃がそうとしましたが、その若武者は拒絶します。味方の兵が近づいて来たため直実は泣く泣くその首を打ちました。
後日、若武者が身に着けていた笛が証拠となり、その人物が敦盛であることが判明しました。
自分の息子と同年代の敦盛を討ってしまった直実は、法然の弟子となり出家して敦盛を弔ったという物語です。
この笛は、「小枝(さえだ)」という名前がついていた由緒ある笛で、平忠盛が院から拝領し、経盛→敦盛と受継がれたものです。現在は須磨寺が所蔵、宝物館で展示されています。