鎌倉時代の守護と室町時代の守護大名・戦国大名
今川義元(いまがわよしもと)や武田信玄(たけだしんげん)、北条氏康(ほうじょううじやす)など、戦国時代に活躍した武将たちは戦国大名と呼ばれています。
彼らは、鎌倉時代の守護や室町時代の守護大名と何が違うのでしょうか?
朝廷の力が強かった平安時代は、朝廷が任命した国司が各国の行政を取り仕切っていましたが、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、幕府の任命した守護が国ごとに置かれるようになります。
鎌倉時代の守護は大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)と呼ばれる警察権しか認められず権限はそれほど強くはなく、行政権は国司が握っていました。
室町時代になると守護の権限が大幅に強化されます。室町幕府は守護の職務に刈田狼藉(かりたろうぜき)と使節遵行(しせつじゅんぎょう)を加えました。
刈田狼藉とは、土地をめぐり争っている当事者の一方が強制的に稲を刈り取ってしまう行為をいいます。この刈田狼藉を取り締まる権限を守護に与えました。
使節遵行とは土地をめぐる争いが起こった場合、幕府は使節を派遣して裁定を下しますが、この権限も守護に与えたのです。
このふたつの権限が追加されたことによって、室町時代の守護は警察権と司法権を行使できるようになりました。
さらに、荘園や公領の年貢を半分徴収できる権利までが守護に与えられます。これを半済令(はんぜいれい)といいますが、当初は軍費の徴収を目的とした一時的な法令でしたが、1368年に発令された応安の半済令で恒久化されました。
天皇領や摂関家、寺社の所有する荘園は半済令の対象から外されましたが、この半済令によって守護の経済力が強化され、守護による土地の支配が加速することになりました。
このように大幅な権限を付与された守護のことを守護大名といいます。1467年に勃発した応仁の乱はおよそ10年続き幕府の支配力は低下します。応仁の乱が終結したのちも戦乱は止むことなく全国に広がり、世の中は戦国時代へと突入しました。
この戦国時代に登場したのが戦国大名です。守護大名と戦国大名の違いですが、守護は幕府によって任命される役職であり、幕府の統治機構のひとつです。有力守護は京に在府して幕政に従事する必要があり、領国の統治は守護代に任せていました。
これに対し戦国大名は、幕府や朝廷などの権力に依存しない独立した勢力です。国衙の役人や地頭、名主、国人、地侍など、その地方で力を持っていた者たちを配下に従え家臣団を構築します。
家臣とは寄親・寄子の関係を結び、領地を安堵するかわりに軍役を負担させました。さらに分国法を制定して独自の法律により領地を統治していったのです。
武力を背景に荘園を侵略した戦国大名は、貴族や寺社などから荘園を取り上げ自らの経済基盤とすることで、土地の一元支配を完成させたのです。