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今川義元は誅殺好き?山口教継、教吉父子の切腹

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桶狭間の戦い 山口教継・教吉の離反 鳴海城、大高城、沓掛城
*今川方となった鳴海城、大高城、沓掛城

今川義元の政治、軍事顧問であった太原雪斎が1555年に死去します。


義元は雪斎の死の数年前から大きな軍事行動は起こしておらず、もっぱら領国の経営に専念して国力の増強をはかっています。


しかし、尾張に攻め込むため調略活動は積極的に行っており、その成果が山口父子、近藤景春の離反となって現れました。


尾張の国人山口教継(やまぐちのりつぐ)は、織田信秀と信長の二代に仕え、鳴海城を任されていましたが、信秀が1551年に亡くなると。その翌年に息子の教吉(のりよし)ともども織田家から離反します。


信長は兵を率いて山口父子を攻めますが、教継は教吉に鳴海城の守備を任せると、自身は桜中村城に入り信長軍に抵抗しました。


この頃の信長は家督を相続したばかりで余力がなく、山口父子を討つことができなかったのです。


今川義元は、信頼する家臣 岡部元信(おかべもとのぶ)を鳴海城に送り込み、尾張国内における今川勢の拠点とします。


さらに、山口教継は桶狭間の戦いの前年、調略を用いて織田方の沓掛城と大高城を手に入れるという功績をあげます。


大高城に関しては詳細は不明ですが、沓掛城は城主の近藤景春(こんどうかげはる)を説き伏せて今川方に寝返らせたとされています。


義元は新たに手に入れた二つの城に守備兵を送り拠点の強化に努めました。このように大きな功績をあげた山口父子に対し義元は意外な行動にでます。


二人を駿府に呼びつけると、あろうことか切腹をさせたのです!なぜ義元がこのような仕打ちをしたのかはよくわかっていません。


教継と教吉の存在を疎ましく思う信長が、二人が再び織田に寝返ったとする調略を仕掛け、これを信じた義元が誅殺したとする説があります。


また、最前線の要地にいつ裏切るかわからない国人を配置しておくことを懸念した義元が、信頼できる家臣を送り込むために殺害したとする説もあります。


裏切りの疑惑のある国人を駿府に呼びつけて殺害するという手法は義元の常套手段となっていました。


特に国境の地を領有する国人は常に裏切りを警戒され、厳しい監視の対象となっています。少しでも不審な行動を起こせば誅殺される可能性が高くなります。


井伊氏の領地井伊谷も遠江と三河の国境付近に位置していたため、今川氏から常に警戒され井伊直満と直義兄弟、直満の子直親も同じ方法で殺害されました。