松平元康(徳川家康)大高城から岡崎城へ退却「捨て城なら拾っておこう」
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*桶狭間の戦い 大高城から岡崎城への退却
今川義元が桶狭間で討たれたとき、松平元康(徳川家康)は大高城で兵馬を休ませていました。
信長公記では義元が討たれた時刻を未の刻(午後2時頃)だとしていますが、夕方には大高城にも義元敗死の一報が伝わったようです。
この情報を伝えたのは織田方の水野信元(みずののぶもと)でした。
水野信元は元康の母於大の方(おだいのかた)の兄です。元康にとっては伯父に当たります。
*水野信元系図
水野氏は信元の父忠政(ただまさ)の頃は今川氏に従っていた時期もありましたが、忠政が亡くなると、家督を継いだ信元は織田と手を結び今川から離反しました。
これを知った元康の父 松平広忠(まつだいらひろただ)は、今川に忠誠を示すため於大の方を離縁します。
以後、水野氏は織田方として今川氏や松平氏と争うことになります。
桶狭間の戦いで水野信元がどこに居たのかは不明です。
居城の緒川城で守りを固めていたとも、城の周辺に出陣していたとも言われています。
信元は家臣 浅井道忠(あさいみちただ)を大高城に派遣して、織田の兵が攻撃してくる前に城を出るよう促します。
元康は情報収集を行い夜半になってから大高城を出ると、翌日には岡崎に到着しています。
岡崎城には今川の城代が残っていたため、元康たちは松平氏の菩提寺である大樹寺(だいじゅじ)に入りました。
元康は今川の兵が退去したのを確認してから岡崎城に入ります。
このとき元康は「捨て城なら拾っておこう」と言って入城したと「三河物語」に記されています。
およそ10年ぶりに居城に戻ることができた元康は、その後駿府に出仕することなく、独立の道を歩むことになります。