岡崎城に帰還した松平元康(徳川家康)は、織田信長の侵攻に備え城の守りを固めるとともに、西三河に点在する松平一族の連携強化に努めます。
通説では、岡崎に戻った元康はあくまでも今川方として西三河に侵攻してきた織田軍と戦います。
しかし、いつまでたっても弔い合戦をしない氏真に見切りをつけた元康が、桶狭間の翌年に信長と同盟を結び今川から離反したとされています。
一方で、岡崎に帰還した直後から今川家からの離反を画策して西三河の平定に乗り出したとする説もあります。
また、元康が清須城に赴き信長と会見を行ったとする史料もありますが、これについては信頼できる史料に記載がないので、創作の可能性が強いと考えられています。
現在発見されている書簡などから推測すると、元康が東三河への侵攻を開始した時期は1561年5月です。
元康の裏切りに怒り心頭の氏真は、人質にしていた元康の家臣の妻子を処刑します。
吉田城にいた人質十数名は、城下の竜拈寺(りゅうねんじ)に引き出され、串刺しにされたと伝わっています。
駿府に居た元康の妻瀬名と竹千代(信康)、亀姫は処刑を免れますが、いつ殺されてもおかしくない状況でした。
元康は1562年3月今川方の上ノ郷城(かみのごうじょう)を攻めます。上ノ郷城は今川一門の鵜殿長照(うどのながてる)の居城です。
長照の母は今川義元の妹であり、今川家との関係が強いことから、松平氏に抵抗を続けていました。
元康は守りの堅い上ノ郷城を落とすため城内に伊賀忍者を送り込んだという逸話が残されています。
伊賀衆は城内の各所に火をつけ「裏切りだ!」と叫びます。城内は大混乱となり、この隙に松平軍が攻めかかり城を落としたのです。
城主鵜殿長照は討死しますが、息子の氏長(うじなが)と氏次(うじつぐ)は生け捕りにされます。
元康の家臣石川数正(いしかわかずまさ)は、駿府の氏真と人質交換の交渉を行います。
一門の氏長、氏次を見殺しにできない氏真は、この申し出を受け入れ、瀬名と竹千代(信康)、亀姫を元康に返したのです。
氏真は松平氏と関係の深い家臣の粛清を行い、瀬名の父関口親永(せきぐちちかなが)は切腹!母の佐名も自害したとされています。