1560年今川義元が桶狭間の戦いで討死にすると、三河の松平元康が今川から離反します。
元康は地盤である西三河の国人を味方につけると、東三河にも進出して今川領を侵食していきます。
これを見た遠江の国人衆にも動揺が広がり、今川に見切りをつける者たちが相次ぎます。
その中のひとりが天野氏です。天野氏は遠江国の北側(北遠)で勢力を持っていた一族です。
井伊氏と同じく古い時代から続く名家で、鎌倉時代に活躍した天野遠景(あまのとおかげ)の一族です。
源頼朝の挙兵に従った天野遠景は、平家討伐の功労者として、初代鎮西奉行に任命されます。
遠江国に所領を得た遠景の子孫は今川氏に協力して勢力を伸ばすと、北遠の有力な国人となりました。
しかし、今川義元が桶狭間の戦いで討死にすると、天野景泰(あまのかげやす)は、松平家康(元康から家康に改名)と結び今川から離反します。
これを知った氏真は天野討伐の軍を派遣すると、井伊直平にも出陣の命が下りました。
直平の年齢には諸説ありますが、70代中頃であったようです。
老骨に鞭打って出陣した直平ですが、無理がこたえたのか陣中で帰らぬ人となります。
直平の死因には諸説あり、討死や加齢による老衰、落馬説もあります。
また、「井伊家伝記」では、引馬城主であった直平が家臣の飯尾連竜(いのおつらたつ)によって毒殺されたとしています。
天野氏と姻戚関係にあった飯尾連竜が、天野氏討伐に出陣する直平に毒を盛り殺害したと説明しているのですが、直平は引馬城主ではないですし、飯尾連竜は直平の家臣でもありません。
飯尾氏は遠江の有力な国人のひとりで、当時の引馬城の城主が連竜です。
このようなことから、「井伊家伝記」の内容にはいまひとつ信用のおけない部分があり、直平の死因については不明となっています。
直平の遺体は家臣の大石作左衛門(おおいしさくざえもん)が川名に運び埋葬したとされ、直平の鎧を脱がした場所は「鎧橋」と呼ばれています。
川名の渓雲寺(けいうんじ)が直平の菩提寺となっています。