1562年 今川氏真から謀反の疑いをかけられた井伊直親は、駿府に向かう途中の掛川城下で殺害されました。直親がどのような状況で殺害されたのかは不明です。
通説では、実行犯は今川家の重臣朝比奈泰朝(あさひなやすとも)だとされています。
朝比奈氏は藤原北家の流れをくむ一族で、駿河国志太郡朝比奈郷に移り住み朝比奈氏を名乗るようになりました。
駿河守護今川氏に仕え、今川義元の祖父義忠(よしただ)の代には掛川古城(かけがわこじょう)の守りを任されるようになります。
朝比奈泰朝の父泰能(やすよし)は、氏親、義元を補佐して政務に当たり、今川家中でも中心的な存在になります。泰朝が父泰能から家督を譲られたのが1557年ごろだと考えられています。
井伊直親が殺害された当時、掛川城主は泰朝であり、直親が掛川城下で殺害されたことから、実行犯は泰朝だとされていますが、確たる証拠があるわけではなく、詳細はよくわかっていません。
直親一行が襲撃を受けたとされる場所は十九首塚(じゅうくしゅづか、じゅうくしょづか)と呼ばれています。
この地には、平将門の乱で将門を討った藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が将門の首実検を行ったとする伝承があり、この伝承と直親誅殺事件が重なり現在に伝わったものと考えられています。
直親の首は城下に晒されていたようですが、井伊家の家臣たちが取返し祝田村(ほうだむら)に持ち帰ります。
直親主従の遺体は大藤寺(だいとうじ)で葬られ、遺灰は大藤寺に、遺骨は東光院(とうこういん)に埋葬されました。
この他にも龍潭寺(りょうたんじ)や都田川の堤防沿い、渋川井伊家の墓所にも直親の墓があります。
直親を討ったとされる朝比奈泰朝は、その後も今川氏から離反することなく氏真を支えました。
武田軍の侵攻により、駿府城を追われた氏真を掛川城に迎え入れた泰朝は、徳川軍に城を囲まれるも頑強に抵抗します。
しかし、翌年(1569年)になると開城して氏真とともに北条家に身を寄せるようになりますが、その後の泰朝の消息は不明です。
朝比奈氏の一族の中には徳川家や酒井家に仕え家名を存続した者もいたようです。