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井伊谷徳政令 祝田村と瀬戸村の領民が徳政を要求

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井伊谷徳政令・祝田村、瀬戸村、蜂先神社
*井伊谷徳政令・祝田村、瀬戸村、蜂先神社

桶狭間の戦い後わずか4年で、井伊直親、井伊直平、中野直由、新野親矩と一族の男子を立て続けに失った井伊家では、次郎法師が幼い虎松の後見役となり立て直しをはかることになりました。

次郎法師が家督を相続するに至った経緯は不明ですが、今川からも特に異論はでなかったようです。

三河や遠江では国衆の離反が相次ぎ、それどころではなかったのかもしれません。何か失政があればそれを口実に領地を取り上げ直轄領にでもする算段だったのでしょう。

井伊家のかじ取りをまかされた次郎法師(次郎直虎)が最初に直面した問題が「徳政令(とくせいれい)」です。

徳政令は「債権放棄」を命じる法令です。

鎌倉時代に御家人の救済を目的に発令した永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)が日本で最初の徳政令だといわれています。

室町時代になると徳政を求める土一揆(徳政一揆)が頻繁に起こるようになり、正長の土一揆嘉吉の徳政一揆など大規模な一揆に発展するケースもありました。

徳政令を出すと債務者は喜びますが、債権者は大きな損失を被ります。債権者から徴収する税(土倉役)が減るため幕府にとっては税収減となります。

そのため幕府は分一徳政令(ぶいちとくせいれい)などを発布して、税収の落ち込みを解消する対策を講じました。

戦国時代に入っても徳政の要求は根強くあり、領主は災害や飢饉で領内が疲弊すると徳政令を発布して、領民が一揆を起こさないように対処したのです。

次郎法師(次郎直虎)が治める井伊谷でも領民が徳政を求めました。この徳政令をめぐり今川家が介入してきたことで事態は複雑なものになります。

1566年今川氏真は井伊谷に徳政令を発布します。これに対し次郎法師(次郎直虎)は、徳政令を凍結して実行に移さないという対抗手段をとりました。

井伊谷は代々井伊氏の領地であり、本領を安堵した以上今川といえどもあからさまに内政に干渉することはできません。

次郎法師は井伊家の財政を支える瀬戸方久ら債権者の権利を守るため、徳政令の実施を引き延ばします。

次郎法師が龍潭寺に送った書状には「龍潭寺に対する徳政を認めない」という内容が記されています。

当時は寺社勢力も有力な貸金業者でした。私出挙(しすいこ)などを行い高い利息をとっていたのです。

次郎法師は龍潭寺に対して徳政を認めないという約束をして安心させたのです。

2年間徳政令を凍結した次郎法師ですが、徳政を求める領民の声は日増しに高まっていました。

都田川(みやこだがわ)流域の祝田村(ほうだむら)、瀬戸村(せとむら)の領民たちは、徳政の実施を今川家に直接訴えるという行動にでたようです。

この一連の動きに氏真や小野政次がどの程度かかわっていたのかは不明ですが、領民たちを扇動したのでは?と考えられています。

氏真は次郎法師に督促状を送り徳政令を実行するよう迫ります。この督促状は最後通牒であったようです。

圧力に屈した次郎法師は永禄十一年(1568年)徳政令の実行に踏み切りました。

蜂先神社にはこのときに 次郎法師が祝田郷の禰宜(ねぎ)と百姓に宛てて発給した文書が残されています。

今川家家臣関口氏経(せきぐちうじつね)と次郎直虎の名が連署されていて、徳政令の実施を伝える内容になっています。

直虎の花押入りの書状は現在のところこの一通しか発見されておらず、貴重な史料となっています。

禰宜とは神社の宮司を補佐する者の職名です。蜂先神社に書状が残されていたということは、祝田郷の禰宜とは蜂先神社の関係者であり、蜂先神社を中心に祝田村や瀬戸村の領民が徳政令を求めていたことがわかります。

実権を失った次郎法師は井伊谷城を追われ龍潭寺に移ることになり、小野政次が井伊谷を支配することになりました。