「おんな地頭」井伊直虎!そもそも地頭(じとう)って何?
井伊直虎に関する書籍などを見ると、「おんな地頭」という呼称が使用されています。
地頭(じとう)という言葉は、歴史の教科書には必ず載っているので、学生時代に習ったはずですが、忘れている方も多いと思うので、今回は地頭について説明したいと思います。
地頭の解釈は時代によって異なります。荘園を開墾した開発領主であり、荘園の管理者であり、領主でもあります。
地頭を理解するには日本の土地制度を知っておく必要があるので、合わせて解説していきます。
645年大化の改新、701年大宝律令、718年には養老律令が制定され、日本は律令国家となります。
律令の律は刑法、令は刑法以外の行政や民事に関する規定です。
天皇を中心とする官僚組織が、律令に基づき国を統治していく体制が律令制です。
律令制の基本は公地公民です。土地と人民はすべて朝廷(天皇)のものとなり、戸籍を作成して6歳以上の男女に口分田(くぶんでん)が支給されました。
農民は口分田を耕し租税を治めます。しかし、良質の口分田が次第に不足するようになると、口分田を支給されない者が増加します。
また、祖以外の税(庸や調、雑徭)も負担が大きく、重税に耐えかねた農民たちは住んでいた土地を離れる逃亡(とうぼう)や、戸籍に載らない浮浪(ふろう)となりました。
朝廷は口分田を増やすため、723年に三世一身の法、743年には墾田永年私財法を制定して土地の私有を認める政策を実施します。
土地の私有が認められたことで、財力のある皇族や貴族、寺社、郡司たちは土地の大規模な開墾を行い私有地を増やしていきました。この私有地が荘園(しょうえん)です。
畿内を中心に荘園は増加していきます。荘園の登場により公地公民の原則は崩れますが、初期の荘園は税を治める輸祖田(ゆそでん)であったため、朝廷にとっても税収がアップするというメリットがあったのです。
自力で土地を開墾して荘園を手に入れた開発領主ですが、自分の荘園は自分で守る必要がありました。
国司(受領)の介入や周囲の開発領主たちとの争いもあり、次第に武装化していきます。この武装化した開発領主たちがのちに武士となります。
10世紀に入ると皇族や貴族、寺社などに不輸、不入の特権が認められるようになり、開発領主たちは特権が認められた有力者に自分の荘園を寄進(寄進地系荘園)するようになりました。
有力者に荘園を寄進することで荘園が守られ、不輸、不入の特権を得ることができます。
開発領主は荘園の管理者(荘官 しょうかん)となり、荘園領主(荘園の寄進先)に税を納める役割を担いました。
939年に承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)が勃発すると、各地で朝廷や国司に対する不満が高まり世の中が乱れます。
多くの荘官が武装化をして武士としての側面を見せるようになります。
源平の争乱を経て源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、全国の荘園を管理するために地頭を設置しました。
東国では現地で荘園を管理していた荘官の多くが地頭に任命され、引き続き荘園の管理を任されます。
鎌倉幕府が成立した当初は荘園領主の力が強かったため、地頭は荘園の管理者でしかなかったのですが、承久の乱で朝廷軍が幕府軍に敗れると、幕府の支配力は西国にまで及び地頭の権限が強化されます。
地頭の中には荘園領主に納める年貢を横領する者も現れますが、荘園領主には地頭を罷免する権利がなかったため、幕府の裁定に頼らざるを得ない状況でした。
荘園領主は自分の荘園を守るための妥協案として、荘園の一部を地頭に分割する下地中分(したじちゅうぶん)を認めるようなります。
こうして地頭は荘園の管理者から荘園領主へとその姿を変えていくことになります。
室町時代になると地頭の荘園領主化はさらに加速して、実質的な荘園の支配者である国人領主となります。
国人領主の多くは、室町幕府の守護の被官となり、守護領国制の支配体制に組み込まれることになりますが、毛利氏や長宗我部氏のように自らが戦国大名となり、広大な領土を支配した者もいました。
井伊直虎の井伊家も鎌倉幕府から井伊谷の地頭職に任命され、室町時代には遠江の守護であった斯波氏や今川氏の被官となります
戦国時代には国人領主となっていた井伊氏は、戦国大名に成長した今川氏の被官となり井伊谷の領地を安堵されました。
直虎の時代すでに地頭という役職は有名無実なものとなっていましたが、井伊家の家督代行者となった直虎は井伊谷の領主であり、地頭でもあったのです。