気賀堀川一揆(きがほりかわいっき) 700人をなで斬り
*気賀堀川城・堀江城
徳川家康が遠江に侵攻すると、遠江の国衆の多くは家康に従属しますが、浜名湖沿岸の地域は今川を支持する勢力が強く、刑部(おさかべ)城、堀川(ほりかわ)城、堀江(ほりえ)城には国人や土豪、農民が立て籠もり徳川軍を迎え撃つ体制を整えていました。
井伊谷城を手に入れた家康は刑部城に兵を送りこれを落とすと、翌年には堀川城と堀江城の攻略に取りかかります。
堀江城は今川に従っていた国人大沢氏の居城です。一方、堀川城は城というよりは砦に近く、徳川勢の遠江侵攻に備えて気賀の土豪や農民たちの手によって造られました。
堀川城は浜名湖の潮の満ち引きをうまく利用した造りになっていたとされ、満潮のときには舟を使わなければ城に入ることができなかったようです。
この堀川城には新田友作、竹田高正を中心に土豪や農民およそ2千が立てこもります。徳川勢は干潮を待って3千の兵で堀川城を攻めます。
1日の戦闘で1千名を討取り、さらに落城後も数か月に渡り付近の探索を行い、城から抜け出し隠れていた者たちを捕縛して処刑しました。
処刑された者は700人にもおよびその首は堤に並べられ晒されたとされています。殺戮の状況を聞いた南渓和尚は心を痛め、亡くなった者たちを供養したそうです。
残虐な行為を好まないとされる家康がなぜ堀川城に対しこれほどの徹底した弾圧を行ったのでしょうか?
堀川城に籠った農民たちが家康の逆鱗に触れるようなことをしたのか?それとも単なる見せしめか?
大久保忠教(彦左衛門)の三河物語には、男女をなで斬りにしたとの記述がありますが、殺されたのは農民たちを扇動した土豪だけだとする説もあります。
堀川城を落とした徳川勢は堀江城にも兵を送り攻撃を行います。堀江城攻撃には井伊谷三人衆も加わっていますが、城兵からの激しい反撃を受け鈴木重時が討死しています。
従属して間もない遠江の国衆の動向も気になったのでしょうか?家康は堀川城のときのような強引な攻めは行わず、城主大沢基胤(おおさわもとたね)に使者を送ります。
交渉によって本領安堵の条件を得た基胤は家康と和睦を結び開城しました。江戸時代になると大沢氏は今川氏や吉良氏と同じく高家となり幕末まで家名を存続しました。