しのの再婚相手松下源太郎(松下氏)
*井伊直政生母しのの再婚相手松下氏系図(松下源太郎、松下之綱)
松下氏は三河国碧海郡(へきかいぐん)松下に勢力を持っていた一族です。いくつかの系統があるようですが、虎松(直政)の母しのが再婚した松下源太郎清景(まつしたげんたろうきよかげ)も松下氏の一族です。
しのが再婚した経緯についてはよくわかっていませんが、「井伊家伝記」には、しのが年若なので直虎と祐椿尼(ゆうちんに)が話し合い、松下源太郎と縁組させたと記載されています。
松下源太郎の弟は家康に仕えた松下常慶(まつしたじょうけい)であり、源太郎の妹は同じ一族の松下加兵衛之綱(まつしたかへえゆきつな)に嫁いでいます。
松下之綱は引馬城主飯尾氏の被官で、引馬城の支城である頭陀寺城(ずだじじょう)を任されていました。豊臣秀吉が最初に仕えた人物としても知られています。
引馬の橋で休息していた秀吉に声をかけた之綱は、秀吉を気に入り家来にします。
秀吉の働きぶりを評価した之綱は秀吉を登用しますが、これを妬んだ同僚に陥れられます。
之綱は家中をまとめるため仕方なく秀吉を解雇したという逸話が「名将言行録」に収録されています。
松下源太郎としのの縁談は、虎松の将来を見据えてのことだったのでしょう。
鳳来寺で匿われていた虎松は、父直親の十三回忌の法要のため井伊谷に戻り、そのまま松下屋敷に移り住んだとされています。
松下氏という後ろ盾を得た虎松はやがて家康に仕官して異例の大出世を遂げることになります。
虎松は井伊氏に復姓したため、源太郎は中野直之の次男 一定(かずさだ)を養子に迎えました。
小田原征伐後、豊臣秀吉の命令で関東に国替えとなった徳川家康は、井伊直政に箕輪城12万石を与えます。
源太郎は井伊家の家老として直政に従い箕輪に移り1597年に病没しました。江戸時代 源太郎の系統は与板藩の家老になり家名を存続しました。
松下之綱は秀吉によって大名に取りたてられ、遠江久野城1万6千石を与えられます。
また、之綱の娘は柳生宗矩(やぎゅうむねのり)に嫁ぎ十兵衞三厳(じゅうべえみつよし)を生んでいます。
之綱は1598年に亡くなりますが、江戸時代には子の重綱(しげつな)が二本松藩5万石の藩主となります。
しかし之綱の孫 長綱(ながつな)の代に加藤明成(かとうあきなり)の会津騒動に連座して改易となり、之綱の系統は旗本となりました。