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築山殿の首塚と墓 祐傳寺、八柱神社、西来院

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天正7年9月15日(1579年)徳川家康の嫡男信康が二俣城で自刃するという事件が起こります。

事件の発端は、信康の正室徳姫(とくひめ)が父 織田信長に送った書状だとされています。

書状には信康との不仲、姑築山殿との確執、築山殿と武田勝頼の内通など12カ条の不行跡が記されていたそうです。

信長は家康の重臣 酒井忠次から事情を聞いたうえで、信康の切腹を命じます。

信長に逆らうことができない家康は、家臣に命じて築山殿を殺害、その後信康を自刃させました。

これが信康事件の通説となっていますが、この他にも家康と信康の確執、信康と側近たちによる謀反など、いくつかの説が存在します。

真相は不明ですが、この事件により築山殿と信康(享年21)の命が奪われました。

天正7年8月29日家康から呼び出しを受けた築山殿は、岡崎城から浜松城へ向かう途中の佐鳴湖畔小藪で、家康の命令を受けた野中重政と岡本時仲によって殺害されたと伝わっています。

殺害現場付近の池で血のついた刀を洗ったことから、この池は「太刀洗い(たちあらい)の池」と呼ばれるようになりました。

その後、池が枯れたため築山殿の祟りだと恐れられますが、百年忌の法要を営むと再び水が湧いたとする伝承が残っています。

築山殿の首は信長に送られ首実検にかけられたあと返還されました。

岡崎城代であった石川数正が祐傳寺(ゆうでんじ)に築山殿の首を葬りますが、江戸時代になると八柱神社(やはしらじんじゃ)に改葬されます。

そのため、築山殿の首塚は祐傳寺と八柱神社の両方にあります。また、築山殿の胴体は浜松の西来院(せいらいいん)に送られ葬られました。

西来院には築山殿の廟堂 月窟廟(げっくつびょう)が建立されました(太平洋戦争で焼失後、1978年四百年忌で再建)

二俣城で自害した信康の首も信長に送られ首実検のあと岡崎に返還されました。

家康は清水万三郎に命じ信康の首を葬りますが、岡崎城で度々怪奇現象が起こるようになります。

石川数正は信康の御霊を鎮めるため、仁徳天皇を祀っていた神社に信康を合祀して、若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)としました。

若宮八幡宮には信康の首塚があります。

信康の胴体が葬られた清瀧寺(せいりゅうじ)は、信康の菩提寺となっています。

また、信康に仕えていた榊原康政の兄清政(きよまさ)は、信康の遺髪を譲り受け、江浄寺(こうじょうじ)に葬りました。