万千代が伊賀越えの功績で孔雀の陣羽織を賜る
元亀3年10月(1572年)武田信玄の西上により織田と武田の同盟関係は解消されます。
信玄に裏切られた信長は「未来永劫武田と手を結ぶことはない」と激怒します。
怒涛の勢いで進軍する武田軍は、三方ヶ原の戦いで徳川家康を破ると、翌年には三河に侵攻しますが、信玄の発病により西上作戦は中止となります。
元亀4年4月(1573年)甲斐へ戻る途中の信濃駒場で信玄はその生涯を閉じました。
信玄の死によって危機を脱した家康は長篠城を攻撃して奪い返しますが、信玄の跡を継いだ武田勝頼も2万の大軍で高天神城を囲み落城させます。
以後。遠江の地をめぐり徳川と武田との間で激しい戦いが展開されました。
天正3年5月(1575年)長篠の戦いで武田勝頼を破った信長と家康は、天正10年(1582年)武田の領国に侵攻して武田氏を滅ぼしました。
信長は功績のあった者に武田の旧領を与え、家康は駿河一国を獲得しています。
お礼のため安土を訪れていた家康は、信長から接待を受けその後堺を見物しますが、明智光秀が本能寺の変を起こし信長は横死したのです。
堺から京に戻る途中に本能寺の一報を聞いた家康は、領国である三河目指し逃避行を開始します。いわゆる「神君伊賀越え」です。
この家康一行の中に万千代もいました。服部半蔵の道案内により伊賀から伊勢を通った家康主従は三河の大浜に到着して無事戻ることができました。
この伊賀越えで万千代がどのような働きをしたのかは不明ですが、道中は一揆勢や落ち武者狩りに遭遇したとされているので、万千代も体をはって家康を守ったと想像されます。
万千代は伊賀越えの功績により、家康から「孔雀の陣羽織」を賜りました。
この陣羽織は与板藩井伊家に伝えられ、現在は新潟県長岡市の与板歴史民俗資料館が管理しています。
平成29年5月20日(土)~平成30年3月25日(日)まで、「与板藩井伊家名宝展」が開催され、「孔雀の陣羽織」も公開されています。