万千代の元服 井伊兵部少輔直政を名乗る
おんな城主直虎がもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識
直虎の死から3か月、万千代は22歳で元服し、「井伊兵部少輔直政(いいひょうぶしょうゆうなおまさ)」を名乗るようになります。
「兵部少輔」は、武田信玄の重臣で「甲山の猛虎」と呼ばれた「飯富兵部少輔虎昌」からきているとされます。飯富虎昌(おぶとらまさ)の武勇にあやかり名付けられました。
直政の元服が遅れたのは、養母であり先代の当主であった直虎に気を使ったためだといわれています。
直虎を尊敬していた直政は、直虎の生存中は井伊家の当主になるつもりはなかったのでしょう。
井伊家24代当主となった直政は、武田の旧領をめぐり北条氏と争った天正壬午の乱でも活躍します。
北条氏との国分交渉で使者を務めるなど、外交においても能力を発揮したのです。
国分交渉の結果、信濃と甲斐は徳川、上野は北条の領地となります。家康は三河、遠江、駿河を合わせて五ヵ国を領有する大大名になったのです。
ただし、この国分はあくまで徳川と北条の間の約定であり、他の大名は関知していません。
上野には真田が所有する吾妻領と沼田領があり、やがてこの地をめぐり真田と徳川(上田合戦)、真田と北条(名胡桃城事件)が争うことになります。
この国分交渉の功績で4万石に加増された直政は、武田の旧臣を配下に従え赤備えの部隊を編成することになります。
天正11年1月(1583年)直政は23歳で松平泰親(まつだいらやすちか)の娘「花」を妻に迎えました。
花との間に嫡男直継(なおつぐ)が誕生しますが、花の侍女に手をつけ、この侍女との間に次男直孝(なおたか)が誕生します。
直継と直孝兄弟は、やがて対照的な人生を歩むことになります。