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井伊直政と赤備え

おんな城主直虎がもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識


徳川家康に仕えた井伊直政は、没落していた井伊家を再興させただけでなく、数々の功績によりわずか7年で4万石にまで加増されました。

さらに直政は、徳川軍の旗本先手役(はたもとせんてやく)に抜擢されます。

旗本先手役は旗本一手役(はたもといってやく)とも呼ばれ、徳川家の軍制では、家康の直属部隊とされていますが、家康を護衛するだけでなく、前線に投入される機動部隊でもあります。

旗本先手役には、本多忠勝(ほんだただかつ)、榊原康政(さかぎばらやすまさ)、大久保忠世(おおくぼただよ)、鳥居元忠(とりいもとただ)など、武闘派とよばれる面々が名を連ねています。

旗本先手役となった直政は、石高に見合う軍役を負担する必要がありました。井伊家は平安時代から続く名門ですが、井伊谷の所領は小さく井伊氏に従っていた家臣の数もけっして多くはありません。

そこで家康は、木俣守勝(きまたもりかつ)、西郷正友(さいごうまさとも)、椋原政直(むくはらまさなお)の三名を直政の寄騎に任命すると、武田旧臣の中から、山県、原、土屋、一条、小幡らの部隊117騎を直政に与え、井伊の軍団を編成したのです。

この措置により直政は1千以上の軍勢を動員できる侍大将になりました。

井伊の軍団は武具をすべて赤色で統一した赤備えとして知られますが、赤備えは元々武田家中の飯富虎昌(おぶとらまさ)、西上野衆 小幡信貞(おばたのぶさだ)の代名詞でした。

飯富虎昌が義信事件の首謀者として処分されると、虎昌の弟 山県昌景に引き継がれたとされています。

その山県や小幡の遺臣を配下にしたことで武具を赤備えにしました。寄せ集めであった部隊の団結力を高めるという狙いもあったようです。

武田の中でも精鋭といわれる部隊が直政に編入されると、徳川家中では不満が噴出します。

榊原康政も不満を口にしたとされていますが、これを酒井忠次が一喝したという逸話が残っています。

周囲が羨むほどの厚遇を受けた直政は、家康の期待に応え数々の武功をあげていくのです。