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井伊直政と豊臣秀吉 従五位下への叙任

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若年ながら旗本先手役(はたもとせんてやく)に抜擢された直政は、寄騎と武田旧臣の精鋭部隊を手に入れます。

豊臣秀吉と対峙した小牧長久手の戦いにおいて、直政の部隊は池田恒興(いけだつねおき)、森長可(もりながよし)の部隊と激しい戦闘を行い、池田、森の両将は討死を遂げます。

直政の部隊が森長可を討取ったとする説もありますが、水野勝成(みずのかつなり)隊の鉄砲で眉間を撃たれたとする説もあります。

どちらの説が正しいのか判断できませんが、小牧長久手の戦いで直政が奮戦したことは確かなようです。この活躍により徳川家中での直政の評価が高まりました。

小牧長久手の戦い後、豊臣秀吉は妹の旭姫と家康の縁組を成立させます。さらに、実母の大政所(おおまんどころ)を家康の元に送り上洛を促したのです。

大政所の岡崎下向は、娘の旭姫を訪問するという体裁をとりましたが、実質的には家康への人質であり、上洛の安全を保障する保険だったのです。

家康が上洛すると本多重次(ほんだしげつぐ)は、大政所の宿舎の周囲に薪を積み上げ、家康に万一のことがあった場合の対策をとったという逸話が残っています。

本多重次は作左衛門(さくざえもん)の通称で知られる古参家臣で、三河時代の家康を支えた三奉行のひとりです。重次はのちに豊臣秀吉によって蟄居させられたことから、このような逸話ができたのかもしれません。

これに対し直政は大政所を丁重にもてなします。直政の態度に心を打たれた大政所は、帰国の際に直政の随行を求めたとされています。

小牧長久手での活躍と、大政所への対応に感銘を受けた秀吉は、直政をいたく気に入り、直政に「従五位下」を与えます。

天正16年4月(1588年)後陽成天皇(ごようぜいてんのう)が秀吉の聚楽第(じゅらくてい)に行幸します。

秀吉の御伽衆 (おとぎしゅう)であった 大村由己(おおむらゆうこ)が記した「聚楽行幸記」の中に、「井伊侍従藤原直政」の名があることから、侍従(じじゅう)に任官されたことがわかります。

直政が家康に出仕してから13年!井伊家は徳川家中でもトップクラスの家柄になったのです。