井伊直政の娘婿松平忠吉(まつだいらただよし)
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*西郷局・松平忠吉系図
徳川家康は井伊直政に三人の寄騎をつけますが、その中のひとりに西郷正友(さいごうまさとも)という人物がいます。
西郷氏は東三河八名郡に所領を持つ国衆で今川氏に従属していましたが、今川義元が桶狭間の戦いで討死すると、徳川家康に従いました。
西郷家の当主は正友の兄義勝(よしかつ)ですが、その義勝が元亀2年(1571年)武田との戦いで落命すると、義勝の継室であった女性が徳川家康の側室となります。この女性が西郷局(さいごうのつぼね)です。
家康と西郷局の間には秀忠と忠吉が誕生します。西郷局は天正17年(1589年)に亡くなりますが、秀忠は家康の後継者となり、忠吉は武蔵国忍城10万石を与えられます。
忠吉は井伊直政の長女 政子を正室に迎えると、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで初陣を飾ります。
忠吉は義父直政とともに最前線に進み、東軍の先鋒であった福島正則を出し抜き「抜駆け」を行ったとされています。また、敵中突破を敢行する島津軍を追撃して武功をあげました。
忠吉は戦後の論功行賞で尾張国清洲52万石を与えられますが、慶長12年(1607年)に28歳という若さで亡くなります。
直政と同じく関ヶ原で負った傷が原因で亡くなったとされていますが、関ヶ原から7年も経過していることから、死因は他の病気であった可能性もあります。
忠吉と政子の間には子がいなかったため、家督は異母弟 義直(よしなお)が継ぎ、徳川御三家尾張藩初代藩主となりました。