直政の死 井伊家を継いだ直継(なおつぐ)と直孝(なおたか)
井伊直政には二人の男子が誕生しました。正室 花が産んだ子が嫡男の直継(なおつぐ)で、花の侍女との間にできた子が次男直孝(なおたか)です。
直継と直孝はともに天正18年(1590年)生まれです。
直政は関ヶ原の武功により近江国佐和山18万石を与えられ、初代佐和山藩主となりました。
佐和山に移った直政ですが、関ヶ原の戦いで受けた傷が悪化して体調を崩します。
有馬温泉で療養したようですが傷は回復することなく、慶長7年2月(1602年)に亡くなりました。享年42。
嫡男の直継が家督を継ぎ佐和山藩2代藩主となります。
生前、新城の建設を計画していた直政の意思を継ぎ、井伊家の重臣たちは幕府に働きかけ彦根城の築城許可を得ました。
彦根城の建設は近隣の大名を動員して行われ(御手伝い普請)、元和8年(1622年)にすべて完了しました。
直政が死去したとき跡継ぎの直継は13歳でした。井伊家では藩政をめぐり重臣間の対立が起こります。
井伊家の政務は、木俣守勝(きまたもりかつ)、西郷正友(さいごうまさとも)、椋原政直(むくはらまさなお)、鈴木重好(すずきしげよし)、川手良則(かわてよしのり)、庵原朝昌(いはらともまさ)が務めていました。
木俣、西郷、椋原は家康が任命した寄騎。
鈴木重好は井伊谷三人衆鈴木重時の子。
川手良則は直政の姉高瀬姫の夫。
庵原朝昌は新野親矩の娘(三女)の夫。
鈴木重好、重辰父子と西郷、椋原が藩政をめぐり対立!西郷と椋原は鈴木父子の不正を家康に告発します。
譜代筆頭の井伊家で起きた内紛を憂慮した家康は調停に乗り出します。鈴木重好を隠居させ彦根から追放すると、鈴木家の家督を継いだ重辰と西郷、椋原を和解させることで騒動をおさめました。
筆頭家老の木俣守勝が中心となり藩政を行いますが、守勝が死去すると再び井伊家で騒動が起こります。
守勝には実子がいなかったため、木俣家の家督は養子の守安(もりやす)が継ぎます。この守安は新野親矩の娘(次女)と狩野主膳との間に生まれた子です。
直継は鈴木と椋原を重用したため、これに反発した木俣派との間に対立が生じました。このように直政が死んだあとの井伊家は家臣間の紛争が絶えず藩政は混乱しました。
大坂の陣には弟の直孝が井伊の軍勢を率いて参戦します。その直孝が父直政譲りの見事な働きを見せたのです。
幕府は直継に井伊家を統率する能力がないと判断し、直孝に彦根藩を継がせると、直継には上野国安中3万石を与えました。
直継は歴代彦根藩主には数えられず、彦根藩初代が直政、2代藩主が直孝となります。
安中藩初代藩主となった直継は、名を直勝(なおかつ)に改めます。直勝は寛文2年(1662年)に亡くなりました。享年73。
その後、直勝の系統は三河国西尾藩、遠江国掛川藩を経て越後国与板藩2万石の藩主となり幕末を迎えました。