1867年「亀山社中」は「海援隊」に改名します。薩摩藩や長崎の豪商小曽根家の援助を受け活動してた「亀山社中」ですが経営状態は相当厳しかったようです。
そんな中、龍馬は土佐藩参政の後藤象二郎から面会したい旨の知らせを受けます。後藤象二郎は土佐勤王党弾圧、武市半平太切腹の指揮をした中心人物であり、龍馬たちにとっては仇敵でもあります。
一方で、後藤象二郎の側からすれば、龍馬たち元土佐勤王党は、叔父である吉田東洋を殺害した一派です。では、なぜこの両者が会談をしたのでしょうか?
当時の土佐藩は薩摩藩や長州藩に比べ経済力で劣っていたため、長崎に土佐商会を設立し、貿易の振興に力を入れていました。そこで、すでに「亀山社中」を設立して、経済活動をしていた龍馬に目をつけたのです。
龍馬も「亀山社中」の経営状態を考え土佐藩の援助を期待していました。両者は長崎の「清風亭」で話し合いをして「亀山社中」を土佐藩の組織に組み入れ、土佐藩直属の経済組織にすることで合意しました。
海援隊のメンバーには土佐商会を通じて、毎月5両の給料が土佐藩より支払われました。「亀山社中」時代が3両2分だったので給料が上がったことになります。ちなみに5両は現在の35-40万円に相当します。
このときの土佐商会の責任者が岩崎弥太郎であり、後藤象二郎と岩崎弥太郎は、海援隊を積極的に支援していくことになります。