坂本龍馬最大の功績とうたわれるのが薩長同盟の斡旋です。八月十八日の政変、禁門の変と衝突を繰り返し、不倶戴天の敵として憎みあっていた薩摩藩と長州藩の軍事同盟を斡旋したのが龍馬だからです。
元々、薩摩と長州の同盟に積極的に動いていたのは、福岡藩士の月形潜蔵や土佐脱藩浪士の中岡慎太郎でした。やがて彼らの考えに賛同した龍馬も協力するようになります。龍馬は豊富な人脈と類まれな活動力で両藩の距離を近づけていきます。1865年西郷隆盛と桂小五郎との会談をセッティングしますが、西郷隆盛が約束を反故にして姿を現しませんでした。
薩長同盟に積極的に動いていたのは追いつめられていた長州藩であり、薩摩藩の中には長州との同盟に消極的な意見も少なくありませんでした。そこで龍馬は、軍事同盟の前に経済面で両藩を近づける計画を立てます。長州藩に不足していた武器を薩摩名義で購入し、薩摩に不足していたお米を長州が工面するというプランです。
龍馬は亀山社中を使いこの計画を実現させます。こうして両藩の信頼を得た龍馬は、1866年京都の薩摩藩邸で薩長首脳会談をセッティングします。薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀と長州藩の桂小五郎が会談を行いますが、お互い腹の探り合いで数日が経過します。
桂小五郎が長州に帰る準備をしているときに龍馬が到着!弱い立場の長州から同盟は切り出せない!薩摩藩から同盟の申し入れをするよう西郷を説得します。龍馬の言葉を受け入れた西郷は桂に同盟の締結を申し入れ、ここに薩長同盟が締結されます。
長州藩の桂小五郎は約束がきちんと履行されるか心配になり、後日、同盟の内容を記した書状を龍馬に送り、龍馬は証人としてその書状に朱で裏書をしています。この書類は現存していて、宮内庁に保管されています。
同盟を結んだ薩摩と長州は、武力によって幕府を倒す尊王倒幕へと突き進んでいきます。一方、龍馬は、武力ではなく平和的に解決する大政奉還を模索することになります。