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坂本龍馬!寺田屋で襲撃される

長府藩士 三吉慎蔵
*長府藩士 三吉慎蔵


一般的に、寺田屋事件とは、1862年に薩摩藩士の有馬新七らが、藩主島津久光の命により殺傷された事件をさします。寺田屋で起きた重要な事件がもうひとつあります!1866年に坂本龍馬が幕府の捕り方に囲まれ負傷した寺田屋襲撃事件です。


第二次長州征伐が迫っていたこの時期は、尊王攘夷派の志士たちの動きが活発になっており、幕府も将軍後見役一橋慶喜への襲撃を警戒して取り締まりを厳重にしていました。


そんな中、薩摩藩と長州藩の軍事同盟、いわゆる薩長同盟を締結させた龍馬は、1月23日に寺田屋に戻り、滞在していた長府藩士三吉慎蔵と祝杯をあげます。寺田屋に目をつけていた伏見奉行所は、龍馬と慎蔵を不審人物とみなし捕まえにかかります。


1月24日未明、伏見奉行所の捕り方が祝杯をあげている龍馬と慎蔵を襲撃!この時、龍馬の妻お龍が機転をきかせて知らせたため、龍馬と慎蔵は迎え撃つ体勢をとることができました。


龍馬は高杉晋作から贈られた短銃で、慎蔵は得意の槍で応戦します。6連発式の短銃には弾が5発装填されていて、すべて打ちつくしたとあります。


龍馬は左右両方の手を負傷、特に左の人差し指は腱を切断するほどの重症でした。このときの傷がもとで龍馬の左手は不自由になります。この事件以降に撮影した写真では、龍馬はすべて左手を隠しポーズをとっています。


捕り方数人を死傷させ、何とか寺田屋を脱出した龍馬と慎蔵ですが、龍馬の傷が想像以上に深く動くことができなかったため、近くの材木小屋に身を潜めていました。


慎三は龍馬を残し薩摩藩邸に助けを求めます。お龍と慎蔵から報告を受けた薩摩藩では、材木小屋にいた龍馬を救出して薩摩藩邸に収容します。


幕府方の追求を逃れるため、龍馬とお龍はしばらくの間薩摩でかくまわれることになり薩摩へと旅立ちます。この旅行が日本初の新婚旅行といわれています。