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いろは丸事件

1867年、海援隊は大洲藩の出資により汽船「いろは丸」を購入しました。薩摩藩の依頼で銃や食料品を運ぶ途中、瀬戸内海で濃霧にあい、紀州藩所属の「明光丸」と衝突してしまいます。


「いろは丸」は160トン、「明光丸」は800トンを超える大型船であったため、「いろは丸」側のダメージが大きく浸水して船体が傾きます。「明光丸」は衝突後、「いろは丸」の乗組員の救助に向かいますが、操舵を誤り再び「いろは丸」に衝突してしまいます。


乗船していた龍馬たち乗組員は「明光丸」に移り何とか命は助かりますが、「いろは丸」と積荷は海底に沈んでしまいました。


衝突の原因は、濃霧のため「いろは丸」の船影に気づかなかった「明光丸」が、「いろは丸」の右舷に突っ込んだことによるものとされています。


事件後、紀州藩との賠償交渉に望む龍馬には相当の覚悟が必要でした。紀州藩といえば徳川御三家のひとつであり、立ち上げたばかりの組織である海援隊とは、規模も社会的な地位も比べ物にならない相手です。


そこで龍馬は、交渉を有利に展開するため様々な根回しを行います。各藩の藩士や商人が集まる長崎の丸山で「紀州藩が力ずくで事件を揉み消す」という内容の歌謡を広め、民衆を味方につけます。


その他にも、親交のあった薩摩や長州などの諸藩にも働きかけを行いました。最も効果が大きかったのは、土佐藩の参政である後藤象二郎を交渉の場に出させたことです。


海援隊は土佐藩の組織に組み込まれていたので、紀州藩も後藤象二郎が交渉の場にでてくることを拒むことができなかったのでしょう。


これにより、紀州藩と土佐藩の正式な交渉となったため、紀州藩は力を背景にうやむやに済ますことができなくなりました。


万国公法を持ち出し、理詰めで交渉する龍馬に紀州藩は追い詰められます。本当はどちらに非があったのかはわかりませんが、現実問題として「いろは丸」は沈んでしまい、積荷の損害が発生したことも紀州藩には不利にはたらきました。


紀州藩は薩摩藩士の五代才助を調停役に選び事態の収拾をはかります。しかし、五代才助と龍馬は旧知の仲であり、この段階で海援隊側の勝利が確定します。


その結果、紀州藩は自らの非を認め、賠償金として83500両の支払いを約束します。その後の交渉で賠償額は70000両に減額され支払われることになります。