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日本史
松代藩家督争い 真田信之93歳の大往生。大坂の陣で真田信繁は討死、豊臣秀頼と淀殿は自害して豊臣家は滅亡します。真田家は本領安堵となりますが、7年後には上田から松代へ国替えを命じられました。信之は父祖の地を離れ家臣とともに松代に移ります。信之は沼田の統治を長男の信吉に任せていましたが、その信吉が病没すると・・・
大坂夏の陣 天王寺の戦い真田信繁討死 真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)。大坂夏の陣 天王寺の戦いで真田信繁は討死します。真田日本一の兵(武将)と賞賛される活躍を見せた信繁はどのように戦かったのでしょうか。通説や史料に記載されている内容をふまえながら合戦の開始から信繁討死、大助自刃までを解説します。
大坂夏の陣 天王寺の戦い毛利勝永の活躍!本多忠朝、小笠原忠脩討死。樫井の戦い、道明寺の戦い、八尾・若江の戦いで敗れた大坂方は、残りの兵力をすべて投入して最後の戦いを挑みます。天王寺口に陣取った毛利勝永はこの戦いで真田信繁に劣らない活躍を見せました。敵の武将本多忠朝と小笠原秀政、小笠原忠脩父子を討取り・・・
大坂夏の陣 八尾・若江の戦い木村重成討死!長宗我部盛親敗走!河内口から侵攻してくる徳川軍およそ12万に対し、豊臣方では木村重成、長宗我部盛親を中心とするおよそ1万1千の兵を送ります。徳川の先鋒 藤堂高虎隊と井伊直孝隊は道明寺方面に向かう予定でしたが、物見からの報告で敵がすぐ近くにいることを知ると・・・
大坂夏の陣 道明寺の戦い後藤又兵衛、薄田兼相(隼人)討死。樫井の戦いの敗戦で塙団右衛門を失った豊臣方は、河内口に木村重成、長宗我部盛親を配し、大和口に後藤又兵衛、明石全登、薄田隼人、真田信繁、毛利勝永を送ります。大和口では先陣の後藤又兵衛隊が早朝4時ごろに道明寺に到着しますが、後続部隊が濃霧のため遅れ・・・
大坂夏の陣始まる! 樫井(かしい)の戦い 塙団右衛門討死。冬の陣の和睦からわずか4ヶ月後に夏の陣が始まります。豊臣方は牢人衆を大坂から退去させることができず、一部の牢人衆が暴発したことを口実にされ戦争へと突入しました。真田丸を含む惣構の城郭は破壊され、内堀と外堀が埋められた状態では籠城戦は不可能であり、今回は野戦で徳川勢を迎え撃つ作戦がとられます。豊臣方では徳川に味方する筒井定慶と浅野長晟を・・・
大坂冬の陣 難航する和睦交渉と大砲(カルバリン砲)の砲撃。真田丸の攻防で多数の死傷者を出してから戦線は膠着状態となります。豊臣、徳川両陣営に和睦の機運が高まり本格的な交渉が開始されました。徳川方は秀頼の大坂城退去と淀殿の人質を条件に提示したため交渉は難航します。家康はイギリスから購入したカルバリン砲とセーカー砲で砲撃を・・・
大坂冬の陣 真田丸の攻防 史料による通説を検証。大坂冬の陣で最も激戦となった戦いが真田丸の攻防です。大坂城の南側に出丸を築き5千の兵で守りを固める真田軍に対し、徳川勢の前田利常、榊原康勝、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が攻めかかりました。深い堀と高い塀、三重の柵、櫓、井楼、武者走りなどを備えた真田丸はただの出丸ではなく、独立した城と・・・
真田丸(さなだまる)の構造 史料による通説と新説。1614年に起こった大坂冬の陣で、多くの死傷者が出た戦いが真田丸の攻防です。なぜ真田信繁(幸村)は大軍で攻める徳川勢を撃退できたのでしょうか?信繁が築いたとされる真田丸はどのような構造をしていたのでしょうか?真田丸を描いた絵図や大坂の陣に関する史料はたくさん残されていますが、そのすべてが・・・
博労淵の戦い 橙武者(だいだいむしゃ)薄田兼相(隼人) 。徳川家康は大坂城周辺にあった豊臣勢の拠点をひとつずつ攻略していきます。木津川口と鴫野・今福を攻めこれを落とすと、石川忠総、浅野長晟、水野勝成らに博労淵への攻撃を命じました。木津川口の戦いで活躍した蜂須賀至鎮は、さらなる手柄をあげるため博労淵砦・・・
大坂冬の陣・鴫野・今福の戦い(しぎのいまふくのたたかい)鴫野と今福は大坂城の北東に位置し、大和川を挟んで北側が今福、南側が鴫野です。豊臣方は三重、四重の柵を築き守りを固めていました。徳川家康は上杉景勝に鴫野を、佐竹義宣に今福の攻撃を命じます。関ヶ原の戦いにおいて上杉家は西軍につき、佐竹家は中立を保つも、西軍への関与が疑われた過去があり、何としてもこの戦いで戦功をあげる必要があったのです。上杉景勝は5千の兵を・・・
大坂冬の陣・木津川口の戦い。大坂冬の陣で最初の本格的な戦闘が行われた木津川口は大坂城の西側にあたります。豊臣勢はこの木津川口に砦を築き、五人衆のひとり明石全登に800の兵を与え徳川勢の動きを監視していました。家康は、蜂須賀至鎮、浅野長晟、池田忠雄の三名に木津川砦の攻撃を命じます。蜂須賀至鎮は・・・