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真田信繁(さなだのぶしげ)誕生

真田信繁(さなだのぶしげ)・真田幸村(さなだゆきむら)肖像画
*真田信繁(さなだのぶしげ)

真田信繁(さなだのぶしげ)は1567年父真田昌幸(さなだまさゆき)と母山之手殿(やまのてどの)の次男として誕生しました。


同じ母の兄に信幸(のぶゆき)、同じ母の姉に村松殿(むらまつどの)がいます。母違いの弟に信勝(のぶかつ)、昌親(まさちか)がいました。


兄の信幸は1566年生まれなので信繁より1歳上、姉の村松殿は2歳上となります(信繁の誕生した年に関しては1570年とする説もあります)ここでは1567年生まれで話を進めていきます。


信繁が誕生した当時の真田家を率いていたのは信繁の伯父真田信綱(さなだのぶつな)です。信綱は昌幸の兄で信繁の祖父真田幸隆の嫡男です。


幸隆が亡くなったのは1574年なので、信繁が生まれた1567年当時は幸隆から信綱への代替わりの途中であったと推測されます。


真田家の家督は嫡男である信綱が継承しました。父の昌幸は三男であったため、すでに真田家を出て武田家の一族である武藤家を継いで武藤喜兵衛昌幸(むとうきひょうえまさゆき)を名乗っていました。


信繁が生まれる6年前(1561年)には武田信玄と上杉謙信が死闘を演じた第四次川中島の戦いが行われています。この第四次川中島の戦いは昌幸の初陣でもありました(甲陽軍鑑に記載あり)


信繁が6歳のときに三方が原の戦いが行われ、真田家も武田軍の先陣として参戦しています。


武田信玄の快進撃に伴い真田家も武勲をあげていきますが、信繁が9歳のときに起こった長篠の戦い(1575年)で武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗れ状況が一変しました。


この長篠の戦いで真田家は信綱と昌輝(幸隆の次男で昌幸の兄)が討たれ多くの家臣を失います。傷ついた真田家を再興するために武藤家を継いでいた昌幸が呼び戻され真田家の当主となりました。


このように信繁が生まれた頃は戦国時代の真っ只中であり、各地で激しい勢力争いが行われていたのです。


信繁の幼少期から青年期にかけては史料がほとんど存在しないので、どのような暮らしをしていたのかわかっていません。


信繁の名前が史料に出てくるのは、人質として上杉景勝の元に送られた頃からです。父昌幸や兄信幸の影に隠れた存在であった信繁の名が知られるようになるのは大坂冬の陣 真田丸での戦いからなのです。

真田信繁(さなだのぶしげ)系図
*真田信繁(さなだのぶしげ)系図