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真田三代 真田幸隆(さなだゆきたか)と真田氏系図の謎

真田三代 真田幸隆と真田氏系図
*真田幸隆(さなだゆきたか)系図

真田一族を語るときに真田三代(さなださんだい)という言葉をよく使います。真田三代とは真田幸隆、昌幸、信繁のことをいいますが、実際に真田家を相続して家名を残したのは信繁の兄信幸です。


信幸(信之)は信濃国松代藩の藩祖となり、子孫は松代藩10万石の藩主として幕末まで存続しました。明治時代に制定された華族令に基づき真田家は子爵を授けられます(のちに伯爵)


戦国を生き延び、江戸、明治と家名を存続させた真田家!その真田家の礎を築いたのは真田三代の幸隆です。しかし、幸隆の出自は謎に包まれています。


江戸時代に松代藩真田家によって真田氏の系図(真田家系図)が作成されるのですが、それによると真田家の先祖は、清和天皇につながる名家 海野(うんの)氏であり、真田氏は海野氏の直系であるとしています。


では、海野氏とはどのような一族なのでしょうか。真田氏の領地があった小県郡は平安時代から滋野氏の支配下にありました。滋野氏の先祖は清和天皇の第四皇子貞保親王(さだやすしんのう)だといわれています。


やがて滋野氏は三家に分かれます。その三家とは海野氏、望月(もちづき)氏、禰津(ねず)氏です。三家の中では海野氏が嫡流とされ家格が高かったようです。


戦国時代海野氏の当主は海野棟綱(うんのむねつな)であり、その棟綱の嫡男が幸隆だと真田家の正式な系図には記載されてるのです。


海野氏の嫡流であった幸隆がなぜ真田姓を名乗ることになったのか?その原因は1541年に行われた海野平合戦(うんのたいらがっせん)です。


1541年武田信虎、村上義清、諏訪頼重の連合軍が小県に攻め込み海野棟綱ら滋野三家と戦を行いました。


この海野平合戦で敗れた海野棟綱は領地を捨て他国に逃亡するのですが、幸隆は真田郷に移り住み真田の姓を名乗るようになったのだと真田家は説明しています。


しかし、この真田家の系図には懐疑的な意見が多く信憑背が疑われています。


海野棟綱には幸義(ゆきよし)という嫡男が存在していて、海野平合戦で討死したことが史料に記載されています。


真田氏の系図は「真田家系図」以外にもいくつか存在しています。幸隆を棟綱の次男と記載しているもの、棟綱の娘の子と記載しているもの、幸義の子と記載しているものに分かれます。


今のところ有力とされているのが、白鳥神社に伝わる「白鳥神社系図」です。白鳥神社は海野氏や真田氏の氏神です。


「白鳥神社系図」によると海野棟綱の娘が生んだ子が幸隆だとしています。また、幸隆の弟 頼綱(よりつな)は矢沢家に養子に入り矢沢頼綱となりますが、その矢沢家の系図では、海野棟綱の娘が真田頼昌(よりまさ)に嫁ぎ、二人の間にできた子が幸隆ということになっています。


この説が正しければ、真田氏は海野氏の嫡流ではないものの、嫡流に近い系譜ということになります。


小県には室町時代の頃から「実田 サナダ」「曲尾」「横尾」を名乗る勢力が存在していたことが「大塔物語」という史料に記されています。


「真田村」「曲尾村」「横尾村」といった地名も見られることから、この地域には古い時代から真田氏を名乗る一族がいて、土着の豪族として一定の勢力を持っていたと推測されています。


その真田氏に海野棟綱の娘が嫁ぎ幸隆が生まれたとする説にはそれなりの説得力があります。


どの系図が正しいのか?確定できるだけの証拠が見つかるまでは真田幸隆の出自や系図については謎のままです。