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真田信綱(さなだのぶつな)

真田信綱(さなだのぶつな)系図
*真田信綱(さなだのぶつな)系図


真田信綱(さなだのぶつな)は1537年父真田幸隆(さなだゆきたか)と母恭雲院(きょううんいん)の嫡男として誕生しました。


弟の昌輝(まさてる)、昌幸(まさゆき)、信尹(のぶただ)はともに同じ母から生まれたとされています。


同世代の人物としては織田信長や豊臣秀吉がいます。信長は1534年生まれなので信綱より3歳上、秀吉は同じ年です。室町幕府15代将軍足利義昭や前田利家も同じ年の生まれです。


信綱が誕生したころの真田家は海野氏の一族として小県に領地を持ち、北信濃の武将村上義清(むらかみよしきよ)と敵対していました。


信綱が5歳のとき、村上義清、武田信虎、諏訪頼重の連合軍に攻め込まれ敗退する事件が起きます(海野平の戦い)


この戦いで領地を失った幸隆は、上野国箕輪城主 長野業正(ながのなりまさ)の元に身を寄せることになります。信綱はどこにいたのか史料がないため不明です。


その後、幸隆は武田信玄配下となり信濃先方衆として活躍します。信綱も父とともに行動し経験を積んでいったものと思われます。


1561年に行われた第四次川中島の戦いでは、妻女山へ奇襲をかける別働隊の中に幸隆と信綱も加わっていました。


信綱がいつ家督を相続したかは定かではありませんが、1574年に幸隆が亡くなっているので、その数年前から実質的に真田家を率いていたのは信綱であったと推測できます。


信綱は信濃先方衆筆頭となり、甲陽軍艦には騎馬200騎持ちとされています。騎馬1騎に対し歩兵4人がつくとすると800人を動員できる力があるということです。


武田にとって、信濃にネットワークを持っている真田は重要な存在であったのです。


1574年に幸隆が亡くなり真田家当主となった信綱ですが、その翌年に長篠の戦いが行われます。


武田勝頼は織田・徳川連合軍に敗北し多くの家臣を失います。その中には信綱と弟の昌輝の名もありました。


信綱は太刀を振るいながら突撃し、敵を斬り伏せたのち銃弾を浴びて討死したとされています。信綱は39歳、昌輝は33歳(昌輝の年については異説あり)信綱の首は家臣の白川勘解由(しらかわかげゆ)兄弟が陣羽織にくるんで持ち帰りました。


信綱は信剛寺(しんごうじ)に埋葬され、信綱の首を包んだ血染めの陣羽織とされるものが同寺に伝わっています。


信綱と正室 於北の間には信興、信光とのちに真田信幸(さなだのぶゆき)の妻となる清音院殿がいましたが、信綱の弟昌幸が真田家を継ぐことになりました。


このあたりの事情はよくわかっていませんが、多くの家臣を失った真田家を立て直すために、実績のある昌幸が選ばれたのだと推測されています。