天目山で武田勝頼・信勝父子が自刃したことで名門武田家は滅亡しました。武田二十四将と呼ばれた人たちの多くは長篠の戦いから天目山に至る過程で討死や自刃、処刑をされ命を落としたのです。
その中にあって真田家はしたたかに生き残っていました。真田昌幸(さなだまさゆき)の迅速な行動により織田信長に帰属しますが、その代償として沼田領を失います。
織田信長は論功行賞を行い、武田の旧領のうち滝川一益(たきがわかずます)に上野国と小県郡、佐久郡を、河尻秀隆(かわじりひでたか)に甲斐国(穴山梅雪の所領を除く)と諏訪郡、森長可(もりよしなり)に四郡(更級、埴科、高井、水内)、木曽善昌(きそよしまさ)に木曽郡、安曇郡、筑摩郡、毛利秀頼(もうりひでより)に伊那郡をそれぞれ与えました。
真田領のあった小県郡は滝川一益の支配領域になったため、昌幸は滝川一益配下となったのです。
何とか家名を存続させた昌幸ですが、ひと息つく暇はありませんでした。織田に帰属した三か月後に本能寺の変が起こり、織田信長と嫡男信忠が家臣 明智光秀の謀反にあい横死してしまうのです。
信長という後ろ盾をなくした滝川一益、河尻秀隆、森長可、*毛利秀頼は危機に直面します!わずか三ヶ月では新しい領地を掌握できるはずもなく、信長の死を知った周囲の大名や国人衆がそれぞれ不穏な動きをみせるようになり、上杉と内通した藤田信吉(ふじたのぶよし)が滝川益重の沼田城に攻撃をしかけてきたのです!
滝川一益が兵を率いて救援に駆け付けたため藤田信吉は越後に逃れました。さらに、小田原の北条氏が5万を超える大軍で侵攻してきます。滝川一益は2万の兵でこれを迎え撃ちますが、北条軍に敗れ伊勢長島に退却するのです(神流川の戦い かんながわのたたかい)
森長可や毛利秀頼も領地を放棄してそれぞれの本国に退却しました。河尻秀隆だけは甲斐国にとどまり攻め寄せる国人衆を相手に戦を行いますが、持ちこたえることができず命を落としたのです。
真田昌幸もこの機に乗じ失った沼田領を回復するため行動を起こします。滝川益重が撤退して城主不在となった沼田城に入ると、周囲の国人衆を味方につけ城を占拠します。
昌幸は叔父の矢沢頼綱(やざわよりつな)を城代とし、さらに岩櫃城を信幸に守らせ防備を固めたのです。
滝川一益、河尻秀隆、森長可、毛利秀頼のいなくなった甲斐国、信濃国、上野国は、北条、徳川、上杉の三家による領土争奪戦の場となり、真田家を含む在地の国人衆もこの戦いに巻き込まれていくのです。
この混乱した期間を天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼んでいます。
*毛利秀頼(もうりひでより)
武田滅亡後の論功行賞で信長から領地を与えられた武将のうち滝川一益、河尻秀隆、森長可の名はよく知られていますが、毛利秀頼を知っている人はあまりいないと思います。
毛利秀頼は桶狭間の戦いで今川義元の首を討取った毛利新介(毛利良勝)の子、もしくは斯波義統(しばよしむね)の子とされています。
甲州征伐で軍功をあげたことから伊那郡を与えられますが、本能寺の変が起こると飯田城、高遠城を捨て尾張に退却しました。
その後は豊臣秀吉の配下となり小牧長久手の戦い、九州征伐で軍功をあげ再び飯田城を与えられ以後10万石の大名として存続しました。
毛利秀頼は1593年に亡くなります。秀頼には嫡男秀秋(小早川秀秋とは無関係)がいましたが、なぜか娘婿の京極高知(きょうごくたかとも)が相続し、秀秋にはわずかな知行(1万石程度)しか与えられませんでした。
秀秋は関ヶ原の戦いで西軍についたため改易され、大坂の陣で討死したと伝えられています。