現在の長野県にあたる信濃国(しなののくに)は、高井郡(たかい)、水内郡(みぬち)、安曇郡(あずみ)、更級郡(さらしな)、埴科郡(はにしな)、小県郡(ちいさがた)、佐久郡(さく)、諏方郡(すわ)、筑摩郡(ちくま)、伊那郡(いな)など10の区域で構成されていました。
平安時代から室町時代にかけて信濃国には中小の領主がひしめきあっていて、勢力を拡大するための争いが繰り広げられていたのです。その中から近隣の勢力を従えた有力な国人が各地域で現れるようになります。
高井郡→高梨氏
水内郡→高梨氏、村上氏
安曇郡→仁科氏
更級郡→村上氏
埴科郡→村上氏
小県郡→海野氏(真田氏)
佐久郡→望月氏
諏方郡→諏訪氏
筑摩郡→小笠原氏
伊那郡→高遠氏
高梨氏は清和源氏井上氏の一族、村上氏は河内源氏、仁科氏は桓武平氏、海野氏と望月氏は清和源氏の滋野一族、諏訪氏は諏訪大社の神官、小笠原氏は河内源氏、木曽氏は信濃源氏の一族、高遠氏は諏訪氏の一族など、信濃国には名門と言われる氏族が多数存在していました。もっとも出自については疑わしい部分もあるので割り引いて考える必要があります。
*戦国時代 信濃国勢力図
室町時代になると小笠原氏が信濃国の守護になりますが、村上氏など他の国人衆をまとめあげることができず統治は不安定な状態でした。
1400年には村上氏、海野氏、高梨氏などの国人衆が連合を組み、小笠原氏に反旗を翻したため合戦となります(大塔合戦 おおとうがっせん)
この戦いに敗れた小笠原氏は一時的に守護職を罷免されます。1416年に起きた上杉禅秀の乱の鎮圧に貢献した小笠原氏は再び守護職に返り咲きますが、家督相続を巡る一族内の争いが起こり、信濃での影響力は徐々に低下していきました。
小笠原氏の支配力が低下したことにより、信濃国では国人間の争いが激しくなり、1541年には甲斐国の守護武田信虎と手を結んだ村上義清と諏訪頼重が小県郡に攻め込み、海野氏ら滋野一族を駆逐したのです(海野平合戦 うんのたいらがっせん)
戦いに敗れた海野氏は没落し、海野氏の一族であった真田幸隆も、箕輪城主 長野業政を頼り落ち延びていったのです。
海野平合戦の結果、小県郡を手に入れた村上義清の勢いが強くなり、信濃国で大きい影響力を持つようになります。
一方、隣国の甲斐では父信虎を追放した武田晴信が家督を継ぐと、信濃国への侵攻を開始します。
晴信は諏訪氏と諏訪氏の一族である高遠氏を滅ぼすと、のちに誕生した勝頼に諏訪氏を相続させ、諏訪郡と伊那郡を手に入れます。
さらに佐久郡に浸出すると、望月氏を降伏させ配下に組み入れます。怒涛の勢いで信濃を席巻する武田軍に対し、更級郡、埴科郡、小県郡を領有していた村上氏がこれに対抗し、上田原の戦いで武田晴信を打ち負かしたのです。
武田の惨敗を好機とみた信濃守護小笠原長時は、諏訪郡に侵攻して武田の城を攻撃します。武田晴信も軍勢を率いて出陣し、1548年に塩尻峠で小笠原軍と激突!
激しい戦いとなりますが、晴信の調略を受けた仁科氏など長時側の武将が次々に裏切り、小笠原軍は内部崩壊します(塩尻峠の戦い)
長時は居城林城を奪われ落ち延びて行きました。これ以降仁科氏は武田方となり、のちに信玄の五男盛信が仁科氏を継ぎ仁科盛信となります。
上田原の敗戦で一時勢いを失った武田ですが、塩尻峠の戦いで勢力を回復すると村上氏の領地に再度侵攻します。村上義清はこれを迎え撃ち砥石城で戦闘が行われました。この戦いで武田晴信は再び村上義清に敗れ甲斐に逃げ帰ったのです(砥石崩れ)
義清に二度敗れた晴信は、力攻めをあきらめ調略で村上陣営を切り崩しにかかります。このとき活躍したのが真田幸隆です。
海野平合戦で領地を追われた幸隆は、武田に接近して失地の回復を画策します。小県にネットワークを持つ幸隆を配下にした晴信は、調略で村上方の武将を寝返らせ義清の勢力を削いでいったのです。
配下の武将に次々裏切られた村上義清は長尾景虎を頼り越後に落ち伸びていきます。
北信濃をほぼ手中にした晴信は1555年になると木曽郡に侵攻し、木曽義昌を服従させます。晴信は娘を義昌に嫁がせ、木曽氏を親族衆として配下に組み入れたのです。
さらに、最後まで抵抗を続けていた高井郡の高梨氏も持ちこたえることができなくなり、越後に逃れて長尾景虎の庇護を受けることになりました。こうして武田晴信は念願であった信濃を手に入れたのです。
武田氏滅亡後の信濃は、織田、北条、上杉、徳川など領主が次々に交代し、江戸時代に入ると中~小規模の藩がたくさん置かれました。松代藩と松本藩が10万石で、信濃では最大の石高となります。