真田昌幸(さなだまさゆき)は信濃国小県の国人真田幸隆(さなだゆきたか)の三男として1547年に誕生しました。
母は幸隆の正室 恭雲院で、同じ母から生まれた兄に信綱(のぶつな)と昌輝(まさてる)、弟に信伊(のぶただ)、母違いの弟に金井高勝(かないたかかつ)と清鏡(きよあき)、その他に女子が二人います。
*真田昌幸の兄弟
嫡男の信綱は1537年生まれなので、昌幸とは10歳離れています。昌幸が仕えることになる武田勝頼は1546年生まれなので、昌幸より1歳上です。昌幸と同じ年に生まれた武将は浅野長政(あさのながまさ)と島津家久(しまづいえひさ)です。
嫡男の信綱は後に真田の家督を継ぎ、次男の昌輝は信玄の側近であり、伝令部隊でもある百足衆(むかでしゅう)に抜擢され、騎馬50騎持ちの武将として活躍しました。
昌幸が生まれる6年前の海野平合戦で敗北した父幸隆は、真田郷を追われ流浪の身であったため、幼少期の昌幸に関してはほとんど史料がありません。
幸隆が武田の傘下に入ると、昌幸は人質として武田信玄の元に送られます。人質といっても捕らわれの身ではなく信玄の小姓として側に仕えました。
昌幸が15歳のときに第四次川中島の戦いが行われますが、この戦いで昌幸は初陣を飾ったとされています。
昌幸の才能を見抜いた信玄は、武田の親類にあたる武藤家を昌幸に継がせます。以後武藤喜兵衛尉昌幸(むとうきへえのじょうまさゆき)と名乗り、武田家の親類衆、侍大将としてキャリアを積んでいくのです。
1573年に信玄が死去すると、跡を継いだ勝頼に仕え、1575年の長篠の戦いでは勝頼の旗本として参戦しています。この戦いで織田・徳川連合軍に敗れた勝頼は多くの重臣を失います。その中には昌幸の二人の兄信綱と昌輝も含まれていました。
昌幸は真田家当主となり、凋落をたどる主家を必死に支えますが、その甲斐なく武田家は天目山で滅亡しました。昌幸は、織田、北条、徳川、上杉と主を次々と替えながらも、やがて独立の道を歩み始めるのです。
*真田昌幸系図
武田滅亡後の昌幸の活躍については、別ページで随時紹介していきます。
*昌幸の弟たち
昌幸には三人の弟がいます。同じ母の弟 真田信伊(さなだのぶただ)は、昌幸と同様に信玄に仕え、加津野家に養子に入り加津野市右衛門尉信昌を名乗るようになります。
武田家滅亡後は真田姓に戻り、北条→徳川→蒲生→徳川と主を替え、最終的には徳川家に落ち着き5000石の旗本として家名を残しています。
あとの二人の弟については史料がほとんどなく詳細はわかっていません。高勝は金井家の養子となり1606年に亡くなり高勝寺(龍願寺)に葬られたとされています。
清鏡については弟ではなく兄であるとする説もあります。修験者となり東北地方にネットワークを持っていて、南部家と関わりがあったとされていますが、本当かどうかは不明です。