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第一次上田合戦・神川(かんがわ)の戦い

第一次上田合戦・神川(かんがわ)の戦い 真田、徳川、上杉
*第一次上田合戦・神川(かんがわ)の戦い


上野の沼田領、吾妻領を巡る真田、徳川、北条の緊張は、1585年になるとピークを迎えます。


室賀正武(むろがまさたけ)を討ち小県を統一した真田昌幸は、海津城の城代須田満親(すだみつちか)を介して越後の上杉景勝に使者を送り服属する旨を申し出ます。


この要請を受けた上杉では、昌幸の言動に疑いを持ちながらも、北信濃をめぐる徳川との争いを有利に導くために真田の帰属を受け入れます。


もちろん昌幸は無条件で上杉に服属するわけではありません。沼田領、吾妻領を含む本領の安堵など、できるだけ有利な条件を勝ち取ろうと何度もやり取りが行われたことが推察されます。


その結果、上杉景勝は九ヶ条の起請文を昌幸に送ります。この起請文は沼田城代 矢沢頼綱(やざわよりつな)を介して昌幸の元に届けられました。


このことから、上杉との交渉には矢沢頼綱が関与していたことが伺えます。昌幸の弟の信伊(のぶただ)は徳川の配下となっていたため、矢沢頼綱が上杉との交渉役になっていたのかもしれません。

この九ヶ条の起請文には、
・真田の本領である、小県領、沼田領、吾妻領を安堵する
・真田の本領に敵(徳川や北条)が攻め込んだ場合、上杉が援軍を送る
・埴科郡の坂木、庄内、屋代の領有を認める
・佐久郡もしくは甲斐のうち一群の領有を認める。
・上野箕輪領の領有を認める
・海津城 城代須田満親の指示に従うこと

などの内容が記載されていました。

本領安堵の他、埴科郡(はにしなぐん)の一部の領有を認められ、さらに徳川の支配下にある佐久郡や甲斐国を攻略すれば、一群を与えられるというものです。


昌幸にとって何よりも重要なのは本領の安堵です。さらに、援軍の派遣も不可欠な条件でした。徳川から上杉に鞍替えすれば、当然徳川や北条の大軍が攻め込んでくることが予想されます。


真田だけで対抗するには限界があり、上杉の援軍が絶対に必要だったのです。最終的にこの二つの条件が認められたことで、昌幸は上杉への寝返りを決断したと思われます。


一方、昌幸の離反を知った徳川家康は激怒します!小県の統一や上田城の築城に協力した挙句に裏切られ、北条との約定も果たすことができない状況となったのです。


残虐な行為を好まない家康ですが、このときばかりは「真田を根切り(皆殺し)しろ!」と命じたそうです。


家康は真田領に侵攻すべく討伐軍を編成します。徳川からは鳥居元忠(とりいもとただ)、大久保忠世(おおくぼただよ)、平岩親吉(ひらいわちかよし)の三名が選ばれました。


鳥居元忠と平岩親吉は、今川の人質時代から家康に従っていた忠臣です。鳥居元忠は、天正壬午の乱における黒駒合戦で北条軍を撃退した功績により、甲斐国 都留郡の統治を任されていました。


元忠は家康から最も信頼された家臣の一人で、のちに関ヶ原の前哨戦となった伏見城の戦いで壮絶な最期を遂げています。


平岩親吉も家康の嫡男信康の傅役を任されたほどの人物で、のちに家康の九男義直が尾張藩主になると附家老として義直を補佐することになります。


大久保忠世は、譜代の家臣で数々の功績を挙げた大久保一族のひとりです。忠世自身も三方ヶ原の戦いや長篠の戦いで軍功をあげ、信濃国の統治を担う奉行として小諸城に在城していました。


この三名に依田、諏訪、保科、小笠原など信濃の国人衆が招集され7千を超える軍勢で小県に侵攻したのです。


徳川の動きを察知した昌幸は、上杉景勝に援軍を要請し、その見返りとして信繁を人質に差し出します。


海津城へ向かう信繁には護衛として矢沢頼幸(やざわよりゆき)が付けられました。信繁は春日山城に送られ景勝と対面します。景勝はこのとき屋代氏の旧領から千貫文を信繁に与えたとされています。


約束通り人質を差し出した昌幸を援護するため、景勝は北信濃の国人衆に出陣を命じます。昌幸は援軍の力を借りて完成途上であった上田城の普請を急ピッチで進め、徳川軍が小県に侵攻してきた頃には、完全ではないにしても迎え撃つ体制は整っていたと推察されます。


真田と徳川が戦った第一次上田合戦・神川(かんがわ)の戦いについては、その詳細がよくわかっていません。


「加沢記」「三河物語」「参河徳川歴代」「烈祖成績」などの史料の中に戦いの様子が記されています。


それらを参考にして合戦の様子をまとめると、徳川を迎え撃つ真田の兵力は雑兵も合わせて2千ほどだったようです。昌幸は城に通じる道に千鳥掛けの柵を設置して敵の侵入を防ぐとともに、信幸に兵を与え砥石城を守らせます。


神川まで侵攻してきた徳川軍と、砥石城から出撃した信幸軍との間で戦端が開かれます。このとき信幸はわざと負けて上田城まで退却します。


勢いのついた徳川軍が力攻めで上田城に攻撃を仕掛けてくると、昌幸は戦いながらも退却を繰り返し、徳川の軍勢を城内の二の丸に誘い込みます。


深い堀と狭い二の丸に身動きのとれなくなった徳川軍に対し、昌幸は大木を落とし、あらかじめ籠城させておいた農民たちに石つぶてを投げさせ反撃を開始します。さらに鉄砲や弓を撃ちかけ撃退すると、城の周囲に忍ばせておいた伏兵が襲い掛かったのです。


これを好機と見た昌幸は、周囲の山や林に潜ませておいた農民に合図を送り、一斉に鬨の声をあげさせます。農民には、紙製の旗を持たせており、あたかも大軍が周囲の山に配置されているという錯覚を敵に与えたのです。


恐怖にかられた徳川軍は逃げ惑い、千鳥掛けの柵に引っかかり次々に討たれていきました。命からがら神川まで逃げ延びた兵士たちにも鉄砲や弓が撃ち込まれ、増水した川に足を取られ多数の犠牲者が出たのです。


この戦いで徳川軍の死者は、真田家の文書によると「千三百余」となっており、大久保忠世の弟 大久保忠教(彦左衛門)が記した「三河物語」では「三百余」となっています。


どちらが正しいのか判断できませんが、徳川の大敗であったことは事実です。この負け戦に自身も参加していた大久保忠教は、兄の忠世が発した言葉を残しています。


それによれば「ことごとく腰が抜け果て」「震えて返事もしない」「下戸に酒を強いるがごとし」「このような者たちに知行を与えるのはもったいない」と自軍の不甲斐なさを嘆いています。


第一次上田合戦・神川(かんがわ)の戦いで昌幸は、上杉から援軍を得たとはいえ、ほぼ自力で徳川の大軍を退けています。この戦の勝利により、真田家は戦国大名としての一歩を歩み始めたといっていいでしょう。


なお、真田信繁は上杉景勝の元に人質として送られていたため、第一次上田合戦・神川(かんがわ)の戦いには参戦していませんが、景勝に直訴して許され、戦いに加わったとする説もあります。


上杉と真田の信頼関係がまだ構築されていないこの時期に、人質の信繁をそうやすやすと返すとは考えられないことから、信繁参戦説は少数派となっています。