第一次上田合戦で7千の兵を派遣しながら上田城を陥落させることができなかった徳川家康は、小県に隣接する佐久郡まで兵を引きます。何としても上田城を落としたい家康は、井伊直政らに5千の兵を与え援軍を送ったのです。
徳川の攻撃を退けた昌幸ですが、一息つく暇はありませんでした。徳川が再び攻めてくることは確実であり、上田城の防御力を上げる必要があったのです。
上杉の援軍(北信濃の国人衆)の力を借り城の改修を急ぐ一方で、昌幸は豊臣秀吉に書状を送り助力を依頼しています。
第一次上田合戦から二十日後、小諸城で体制を立て直した徳川軍が、上田城の南東にある真田方の丸子城に攻撃を仕掛けてきました。知らせを受けた昌幸は上田城から出撃します。
丸子城をめぐる戦いに関しても、史料がほとんど存在していないので、詳細はわからないのですが、両軍の間で戦闘が行われたようです。
この戦いに井伊直政の援軍5千が参加していたかは不明ですが、結果として丸子城を落とすことができませんでした。長期戦を覚悟した家康は、小諸城を拠点に北条と連携して真田を追い詰める作戦に出ます。
徳川と同盟を結んだ北条氏直は、上野の沼田城を奪取すべく大軍を派遣しますが、城将矢沢頼綱(やざわよりつな)の激しい抵抗にあい攻めあぐんでいました。
徳川との戦が膠着状態になっていたこともあり、昌幸は沼田城に援軍を送ることができたのです。上田からの援軍を得た頼綱は、何度も攻撃を仕掛けてくる北条軍をその都度撃退し沼田城を守り抜きました。
上杉の動きを警戒していた北条軍は、長滞陣は不利と判断して沼田城の攻略をあきらめ撤退したのです。
徳川と北条の攻撃を何とかしのいだ昌幸の元に豊臣秀吉から返書が届きます。その書状には、「事の詳細は承知した。昌幸の進退については悪いようにはしない」と書かれていました。
秀吉から昌幸に送られた別の書状には、「来年には徳川を成敗する」などと記載されているものもありました。
上杉景勝のとりなしもあり、秀吉とのつながりを得ることができた昌幸は、以後秀吉に服従することになります。
早い段階で秀吉と関係を構築できたことは昌幸にとって幸運であり、沼田領を争う真田と北条の明暗を分けることになったのです。