真田昌幸の上洛、秀吉の命令で徳川家康に臣従する
1586年10月徳川家康は大坂城に赴き豊臣秀吉に謁見します。家康が秀吉の臣下になったことは、真田昌幸の立場に大きな影響を与えました。
秀吉は真田昌幸と小笠原貞慶(おがさわらさだよし)に上洛を命じます。小笠原貞慶は天正壬午の乱で徳川につきますが、石川数正の出奔にともない秀吉に臣従していました。
秀吉、家康間の話し合いで、昌幸と貞慶は徳川の配下となることが決められていたのです。これを察した昌幸は、これまでの遺恨から徳川を警戒していたため、上洛命令にそう簡単に従うわけにはいかなかったのです。
秀吉は上杉景勝に書状を送り、昌幸の上洛を執拗に促します。秀吉と景勝双方からの度重なる上洛命令に抗しきれなくなった昌幸は、1587年2月に貞慶とともに大坂城を訪れ秀吉に謁見したのです。
このとき信幸と信繁も一緒に上洛し、信繁はそのまま秀吉の人質となったようです。大坂城には家康の重臣酒井忠次が控えていました。
秀吉は徳川に従属することを昌幸と貞慶に申し渡し、酒井忠次とともに家康の元を訪れることを命じたのです。
昌幸と貞慶は3月になると駿河国 駿府城を訪れます。両名が家康に拝謁し臣下の礼をとったことが松平家忠の「家忠日記」に記されています。これにより昌幸の身分は、徳川家付きの与力大名となったのです。
大名として独立を目指していた昌幸にとって不本意な結果となりましたが、秀吉という後ろ盾を得ての家康への出仕であり、その地位は安定したものとなったのです。
懸案であった沼田領問題については、昌幸が家康に従属したのちも城の明け渡しなどの動きが見られないことから、秀吉に一任したものと推測されます。
家康を臣従させたことで背後の心配がなくなった豊臣秀吉は、自ら25万の大軍勢を率いて九州に上陸し島津討伐を敢行したのです。