四国の長宗我部を服従させ、東海の徳川家康を懐柔し臣下の礼をとらせた豊臣秀吉は、1587年3月 25万の大軍を率いて九州に上陸し薩摩の島津を討伐しました。
西日本を制圧した秀吉の関心は東日本に向けられます。関東の北条と奥羽の伊達を制圧すれば天下を掌中に収めることができるのです。
天下統一の最大の障壁は関東の北条氏です。北条早雲から氏直まで5代にわたり関東に覇をとなえた北条氏は国人衆との結びつきも強く、秀吉といえどもそう簡単に落とせる相手ではありませんでした。
北条討伐が失敗に終われば、一度は服従させた徳川や島津が再び離反する可能性もでてきます。特に北条と同盟を結んでいた徳川家康の動きを秀吉は警戒していたのです。
秀吉は北条氏政、氏直に上洛するよう何度も書状を送ります。上洛命令を受けた北条では、穏健派と主戦派の意見が対立していましたが、使者を秀吉の元に送り従属する旨を伝えたのです。
従う意思を表明したことで秀吉と北条の間の緊張状態は解消されます。北条は氏政の弟氏規(うじのり)を京に派遣して秀吉との折衝に当たらせるのです。
交渉の焦点は氏直、氏政がいつ上洛するかに移ります。家康のときと同じく、氏直や氏政が上洛して秀吉に拝謁し、臣下の礼をとることで本当の従属になります。
この交渉で北条氏は沼田領問題を持ち出します。天正壬午の乱で真田が北条から離反して以降、沼田領を巡っては、大規模な戦闘以外にも局地戦や小競り合いが度々起こり、緊張した状態が継続していました。
北条は上洛の交渉に沼田問題を入れることで有利な条件を引き出そうとしたのです。秀吉と北条の間で沼田領に関する何らかの取り決めが行われたことが推測されます。
秀吉は北条と真田に対し関東惣無事令を遵守して停戦をするよう命じます。さらに、詳細な事情を聞くため北条家の家臣を秀吉の元に派遣することを要請します。
真田の主張は昌幸が上洛して在京していたことからすでに秀吉の耳に入っていたと思われます。北条側の主張を聞いてこの問題を解決しようと秀吉が本腰をあげたことが伺えます。
北条は重臣の板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)を京に送り、沼田の領有に関する北条の主張を伝えます。両者の言い分を聞いた秀吉は1589年7月に裁定を下します。
・沼田城を含む沼田領の3分の2は北条のものとする。
・沼田領の3分の1は真田のものとする。
・真田が割譲した領地に相当する替地を家康が真田に与える。
・吾妻領に関しては一部の地域(中之条郷)を除き真田のものとする。
なぜ沼田領を3分割して3分の2を北条に与え、3分の1を真田のものとしたのか?
一部の史料には名胡桃城周辺は真田家の墓地があるので、真田に与えたとする記述がみられます。また、単純に利根川を境に領地を決めたとする説もあります。
いずれにせよ、この秀吉の裁定により真田は沼田城を失うことになりました。
織田、北条、徳川、上杉と主を次々にかえたのも沼田領と吾妻領を守るためです。吾妻領は安堵されたものの、沼田領の多くを失ったことは昌幸にとって残念な結果となりました。
また、北条の攻撃を度々退け沼田城を守り抜いた城代 矢沢頼綱(やざわよりつな)にとっても無念の思いがあったことでしょう。
一方、北条にとってこの裁定はどうだったのでしょうか?
真田が実効支配する沼田領の3分の2を手に入れたことを思えば、北条に有利な裁定だと受け取ることができます。
しかし、北条にとって上野国を完全に掌中に収め、関八州を統治することが悲願であり、そのために沼田領に幾度も攻めこんだ訳ですから、納得のいく裁定ではなかったのでしょう。
特に主戦派にとっては、名胡桃城を含む真田の領地は、喉に刺さった小骨のような不快な感じを抱いたことが推測されます。
真田、北条双方が不満を抱えながら、沼田領の割譲が行われますが、秀吉の裁定からわずか4か月後に名胡桃城をめぐり事件が起こります。そしてこの事件が北条滅亡のきっかけとなってしまうのです。