1589年7月豊臣秀吉は沼田領問題の裁定を下します。この裁定を受け入れた真田と北条は、早速沼田城の引き渡しに着手します。
秀吉は家臣の津田盛月(つだもりつき)と富田一白(とみたいっぱく)を派遣して、城の受け渡しが滞りなく行われるよう命じます。
昌幸から沼田領の統治を任されていた信幸は、上使の津田と富田を接待するとともに、北条との間で沼田城の受け渡しに関する話し合いを行います。
徳川からも検使として重臣の榊原康正が派遣されます。正確な日付は不明ですが、引き渡しは7月22~24日までの間に行われたようです。
沼田城の受取りのため、北条氏邦(ほうじょううじくに)と一門衆の氏忠(うじただ)が兵を出したことが史料に記載されています。氏邦と氏忠は氏政の弟で、氏邦は上野国攻略の責任者でした。
氏邦は2千の兵で津田と富田を迎え問題が起こらないように周囲に目を配ります。沼田城には真田の兵が千人ほどいたようなので、倍の2千が必要だったのでしょう。氏忠が城の受取り役となり、沼田城の受け渡しは無事に完了しました。
沼田城を手に入れた北条は氏邦に管理を任せます。氏邦は城代に猪俣邦憲(いのまたくにのり)を任命して、城の守りを固めさせます。
一方、沼田領の3分の2を割譲した真田では、知行地を失った家臣に対し代替地の補てんなどを行います。秀吉の裁定では割譲した領地に相当する替地を家康が真田に与えることになっていました。
この替地が何処なのかはっきりしませんが、信濃国の箕輪領だとする説があります。沼田領から箕輪領に家臣の再配置が行われたと推測されます。
真田に所有が認められた名胡桃城は、引き続き 鈴木主水(すずきもんど)が城代となり、沼田城代であった矢沢頼綱は岩櫃城代となりました。
沼田領をめぐり常に臨戦態勢をとっていた真田と北条にひとときの平穏が訪れます。しかし、沼田城引き渡しからおよそ4ヶ月が過ぎようとした10月下旬に大事件が勃発します。
秀吉の裁定により真田が領有した名胡桃城を北条が奪ってしまったのです。事の詳細ははっきりしませんが、通説では名胡桃城代鈴木主水を義理の弟の中山九郎兵衛が騙し城を乗っ取ったとされています。
中山九郎兵衛という人物は、もと中山城主中山安芸守の次男でしたが、中山城を北条に奪われたのちは、義理の兄(姉の嫁ぎ先)である鈴木主水の世話になっていました。
沼田城代 猪俣邦憲は家臣の竹内孫八左衛門に命じて中山九郎兵衛を調略します。鈴木を討てば名胡桃城を与えるという北条の誘いに乗ってしまった中山は、偽書を作成して鈴木を上田城に向かわせます。城代である鈴木が不在の隙に北条の軍勢を城内に引き入れ乗っ取ってしまったのです。
*胡桃城事件 真田と北条相関図
鈴木は上田城に向かう途中に岩櫃城の矢沢頼綱を訪ねますが、中山の行動に不審を抱いた頼綱は名胡桃城に引き返すことを助言します。しかし、鈴木が城に戻ったときにはすでに事が終わっていました。むざむざと城を奪われてしまった鈴木主水は、責任をとり正覚寺で自刃して果てたのです。
名胡桃城を奪われた真田は騒然となります。昌幸は京に滞在中であったため信幸が対応に当たり、即座に軍勢を整え出陣します。さらに、徳川家康に書状を送り事の詳細を伝えました。
信幸から報告を受けた家康は、秀吉に事件の一報を伝えます。名胡桃城が北条によって奪われたことを知った秀吉は烈火のごとく怒り、北条氏直に詰問状を送るとともに、真田に対し国境の守りを固めるよう命じたのです。