1590年7月5日 北条氏直は降伏して小田原城を明け渡します。豊臣秀吉は主戦派の北条氏政、氏照、松田憲秀、大道寺政繁に切腹を命じます。
7月11日介添え役の北条氏規が見つめるなか、氏政と氏照が腹を斬り北条討伐は終了しました。
当主であった氏直は徳川家康の娘婿であったことが考慮され、一門衆(氏規、氏忠など)と家臣を伴い高野山に追放となります。氏直は翌年に赦免され1万石を与えられますが、同じ年の11月に突然病死してしまうのです。
そのため北条宗家は氏規が継ぎ、氏規没後は嫡男 氏盛が相続して河内狭山藩1万1千石の藩主となり家名を存続させます。北条宗家は大名として江戸時代を生き抜き、明治になると子爵が授けられ華族となりました。
北条を降伏させた秀吉はそのまま奥州に侵攻して8月6日に黒川城に入ります。伊達政宗は小田原城開城前に秀吉に拝謁して臣下の礼をとっていたため、残る小大名たちの処分を発表したのです。大崎氏、葛西氏、白河氏などの所領が没収となります。
国内を統一した秀吉は大名の配置替えを行い、北条氏の旧領には徳川家康が入ることになりました。
家康は武蔵国、上野国、上総国、下総国、伊豆国、相模国の六カ国の他に下野国と常陸国の一部も領有し、その石高は250万石ともいわれます。
家康の国替えに伴い与力となっていた信濃の諸大名も関東に移封となります。小笠原氏は松本から讃岐国を経て下総古河に、諏訪氏は諏訪から武蔵国を経て上野総社に、木曽氏は木曽から下総網戸へと移ることになりました。
その中にあって真田氏だけが信濃に残り本領を安堵されます。さらに、秀吉の裁定により北条に割譲した沼田領も再び真田が統治することになったのです。
秀吉の特別待遇の裏には、徳川家康に対する抑えの役割を真田昌幸に期待していたからだといわれています。
その証拠に家康の領地であった三河、遠江、駿河、甲斐、信濃には豊臣系の大名がずらっと配置されます。
三河国には池田輝政、田中吉政、水野忠重
遠江国には山内一豊、堀尾吉晴
駿河国には中村一氏
甲斐国には加藤光泰
信濃国には、仙石秀久、毛利秀頼、石川数正、日根野高吉、田丸直昌、関一政
この布陣を見ても、いかに秀吉が家康を警戒していたかがわかります。さらに奥州の伊達政宗に対する抑えとして、会津に蒲生氏郷、大崎、葛西領に木村吉清を配しました。
天正壬午の乱から第一次上田合戦、沼田領問題に至る過程で、昌幸と家康の間に生じた溝は解消していなかったのでしょう。家康の与力となってからも両者の関係はうまくいってなかったと推測できます。
昌幸の武将としての能力を高く評価した秀吉は、家康が万が一軍事行動を起こした時の備えとして、信濃に昌幸を残したと考えられます。
実際に第二次上田合戦で、関ヶ原に向かう徳川秀忠の大軍を足止めさせています。その意味で昌幸は秀吉の期待に見事応えたといえます。
秀吉から本領を安堵されたことにより真田の領地は、信濃の上田領、上野の沼田領と吾妻領となり、関東に移った徳川から離れ独立した大名となります。徳川の与力大名から豊臣直臣の大名となったのです。
北条に沼田領を割譲する以前から、沼田の管理は信幸が担当していました。再び沼田を統治することになった昌幸は、正式に沼田領を信幸に与えたのです。
父から独立して沼田領3万石の領主となった信幸は、上田から移動してきた家臣たちに知行地を与えます。このとき矢沢頼幸にも知行が与えられます。以後頼幸は重臣として信幸を補佐していくことになります。