豊臣秀吉が晩年に行った悪行のひとつが「豊臣秀次切腹事件」です。
関白が切腹をするというだけでも前代未聞の大事件なのですが、さらに一族三十余名を三条河原で公開処刑するという何とも残忍な始末に、当時の人々も眉をひそめたといわれています。
これだけの出来事にもかかわらず、原因やいきさつを記した史料があまりないことから謎の多い事件となっています。
なぜ秀次は切腹に追い込まれたのか?なぜ一族は処刑されたのか?通説や史料などを参考に検討してみたいと思います。
まずは豊臣秀次の生い立ちからみてみましょう。
豊臣秀次は秀吉の姉ともの長男として1568年に誕生しました。1568年といえば織田信長が足利義昭を奉じて京に上洛し、義昭を15代将軍に就任させた年です。
秀吉も信長軍の一翼を担い上洛戦を展開して入京後には京都奉行を任されています。信長の家臣として出世の階段を駆け上る秀吉!その最中に秀次は誕生したのです。
1570年織田、徳川連合軍は、姉川で浅井、朝倉連合軍と戦い勝利をおさめます。居城の小谷城に籠城する浅井長政の調略を任されたのが秀吉でした。秀吉は浅井家の重臣宮部継潤(みやべ けいじゅん)の寝返りを画策します。
秀吉には実子がいなかったため甥の秀次を宮部家の養子として送り込み継潤を離反させたのです。養子とは名ばかりで実際は人質でした。浅井家が滅亡すると宮部継潤は秀吉の与力となりますが、このときに秀次を返しています。
幼くして秀吉に駒として使われた秀次ですが、その後も同じような状況が続きます。四国の長宗我部元親に対抗するため、元親と敵対していた三好康長(みよしなやすなが)の元に養子に出されたのです。
三好家に入った秀次は孫七郎信吉(まごしちろうのぶよし)を名乗っています。本能寺の変で信長が横死すると、長宗我部元親の反撃を受けた三好康長は出奔!康長の嫡男 康俊(やすとし)も戦闘の最中に討死もしくは行方知れずとなったことで、秀次が三好家の軍勢を率いることになったのです。
一方、本能寺の変を知った秀吉は毛利と和睦を結び軍勢を反転させると(中国大返し)、山崎の戦いで明智光秀を破り信長の敵討ちを成し遂げたのです。
その過程で池田恒興(いけだつねおき)を味方に引き入れるために、恒興の娘と秀次の縁組を決めています。実際にこのときの約束は履行され恒興の娘は秀次の正妻として迎えられたのです。
その後の秀吉は、ライバルであった柴田勝家を抑え清須会議で主導権を握ると、賤ヶ岳の戦いで勝家を滅ぼし信長の後継者の地位を確たるものにします。
四国攻めで長宗我部元親を服従させると、関白太政大臣となり、上杉景勝、徳川家康を配下に加え九州攻め、小田原攻めを行い天下を平定したのです。
人質や縁組で秀吉の天下取りに貢献した秀次ですが、軍事面での功績はどうだったのでしょうか?秀次の初陣がいつなのかはっきりしないのですが、賤ヶ岳の戦いの前哨戦となった嶺城の攻略では、一軍を任され敵を打ち破る功績を上げています。
しかし、小牧長久手の戦いでは大失態を演じます。岳父池田恒興が提案した岡崎城攻撃軍の大将となった秀次は兵1万5千を率いて進軍しますが、これを察知した徳川軍の奇襲を受け大惨敗を喫したのです。
池田恒興と森長可が討死!秀次も命からがら逃げ帰るしまつで、甥の不甲斐ない行為に秀吉は激怒します。
秀吉は叱責する書状を秀次に送り、「秀吉の甥としての自覚を持つこと」「今後も同じことを繰り返すなら一門の恥であるから首を落とす」「働きいかんではいくらでも知行を与える」「覚悟を見せれば跡を継がせる」として秀次の奮起を促したのです。
秀吉から叱責を受けた秀次は、次の根来攻めでは秀長とともに副将に任命され、千石堀城を落とす功績をあげます。
四国攻めでも副将を任された秀次は三万の軍勢を率いて阿波に上陸します。岩倉城を落とすなどここでも功績をあげたのです。
この活躍により秀次に近江八幡城が与えられます。秀次には宿老として中村一氏、山内一豊、堀尾吉晴など秀吉古参の家臣が付けられ、秀次に二十万石、宿老たちに二十三万石、合計四十三万石が与えられたのです。
京に近い近江の地に四十三万石を与えられたことをみても、秀次に対する期待のほどが伺えます。
*秀次の居城 近江八幡城
島津討伐では軍勢を率いて九州に出陣した秀吉にかわり京の留守を預かりますが、続く小田原攻めでは、秀次自身二万の軍勢を率いて出陣し、北条方の要地である山中城を落としています。
北条氏を降伏させた秀吉は天下統一を成し遂げ名実ともに日本の統治者となったのです。秀吉は北条討伐の論功行賞を行い、関東に国替えとなった徳川家康の旧領を織田信雄に与えます。
しかし、尾張と北伊勢の領地にこだわった信雄がこの配置替えに異を唱えたため、怒った秀吉は信雄を改易して配流としたのです。
信雄の旧領であった尾張と北伊勢五郡は秀次に与えられ、近江の地と合わせて百万石を領有する太守となります。ただし、北伊勢五郡に関しては秀次が領有したのか確証がありません。
また、秀次だけで百万石なのか、秀次と宿老の所領を合わせて百万石なのか史料に記載がないため詳細は不明となっています。
この論功行賞にともない秀次の宿老たちは駿河、三河、遠江に移され、中村一氏は駿河国駿府城15万石、堀尾吉晴は遠江国浜松城12万石、田中吉政は三河国岡崎城5万石、山内一豊は遠江国掛川城5万石、渡瀬繁詮は遠江国横須賀城3万石とそれぞれ加増され東海道の要地に配置されました。
*豊臣秀次の所領、近江、尾張、北伊勢五郡
関白就任前までの秀次の人生をざっと振り返ってみました。小牧長久手の戦いで大失態を演じますが、その後は名誉挽回とばかりに各地を転戦しそれなりに功績をあげています。
周囲のサポートもあり着実に実績を積み上げていく秀次の姿がそこに見えてきます。後年「殺生関白」と呼ばれその残虐性だけが伝わることになる秀次ですが、少なくともこのころの秀次にはその兆候は見られません。
もし、秀次が変わったとするならそれは関白就任以降のことでしょう。それでは関白就任から切腹するまでの過程を見ていきます。
1591年秀吉と淀殿との間に生まれた鶴松がわずか3歳でこの世を去ります。悲嘆にくれる秀吉は「もう子供はできない」と覚悟したのでしょう、秀次に関白職を譲ることを決めます。
秀吉は朝廷に根回しを行い、秀次の官位を中納言から大納言、内大臣へと引き上げるとともに、五カ条からなる訓戒状をしたため、関白としての心構えを秀次に説きます。そして12月28日に関白に就任させたのです。
関白職を譲った秀吉は太閤となり朝鮮出兵に専念するため名護屋城に移りますが、1593年8月3日秀吉と淀殿の間に拾丸が誕生します。
拾丸が生まれたことで、秀吉と秀次の間に微妙な空気が流れたことは容易に想像できます。しかし、秀吉としても関白職を譲った手前大っぴらに秀次を排除する訳にはいきません。
そこで、拾丸と秀次の娘を婚姻させ、秀次から拾丸へ関白職を平和裏に委譲する案が浮上しました。
その後も二人の関係に大きな変化はなく、秀次は秀吉の元を訪ね謁見していますし、贈り物を送るなどして気を配っています。秀吉のほうも秀次を能や茶会に招いています。
ここまでの経緯を見る限り二人の間に大きな亀裂が生じたという証拠は見当たりません。しかしその時は突然訪れました。
1595年7月3日秀吉の奉行衆が聚楽第を訪れ秀次に謀反の噂があるとして詰問したのです。この7月3日を境に二人の関係は大きく変わりました。
秀次切腹事件の通説の根拠となっている史料は「大かうさまくんきのうち【太閤さま軍記のうち】」と「甫庵太閤記」です。とりあえず通説に従い話しを進めていきます。
7月3日秀吉の奉行石田三成、前田玄以、増田長盛、富田左近、宮部継潤が聚楽第の秀次を訪ね「謀反の疑いがある」と詰問します。これに対し秀次は「謀反を起こそうなどと考えたことはない」と答え誓紙を差し出します。
7月5日秀吉は秀次と話し合いをするため伏見に来るよう命じます。
7月8日前田玄以、宮部継潤、中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊の五人が秀次を迎えに聚楽第を訪れます。伏見に到着した秀次は城内に入ることは許されず、木下吉隆の屋敷に向かいます。
秀吉の使者が屋敷を訪れ「対面には及ばない、高野山に行くように」との秀吉の命令を伝えます。
8日に伏見を発った秀次にはお供の者がニ百人以上いたため、石田三成に減らすよう指示をされます。
7月10日秀次が高野山に到着します。
7月13日秀次の家臣に対する処罰が行われ、白江成定、熊谷直之、木村重茲が切腹、その他多くの家臣や家族が処罰されます。
7月15日秀吉の使者として福島正則、池田秀氏、福原長堯の三名が高野山を訪れ秀次に切腹を命じます。
秀次は小姓三名にそれぞれ名刀を与えます。山本主殿、山田三十郎、不破万作は秀次から賜った刀で腹を切り秀次自身が介錯しました。
秀次に帯同していた臨済宗の僧 隆西堂があの世の道案内をしたいと申し出て秀次から村雲を賜り自刃して果てます。
最後に秀次が腹を切り雀部重政が介錯をします。雀部重政もすぐに自刃して秀次の後を追いました。
8月2日亀山城に幽閉されていた秀次の妻子たちが京の三条河原で公開処刑されます。
この時の様子は「太閤さま軍記のうち」「御湯殿上日記」「言経卿記」「上宮寺文書」などの史料に記されています。
秀次の若君三人を含む妻子三十九名(史料によって人数が異なる)が車に乗せられ京の町をひきまわされます。車は一番から七番まであったとされ、幼子は母親のひざに置かれたままひきまわされました。
三条河原に到着すると、車から引きおろされ、秀次の首の前に連れ出され次々に殺害されます。殺戮は数時間にもおよび三条河原は血に染まります。あまりの凄惨さに見物人は言葉を失ったとされています。
処刑された妻子と秀次の亡骸は二十間四方に掘られた穴の中に投げ込まれ埋められます。秀吉は塚を築き「畜生塚」と名付けたそうです。
さらに秀吉は秀次たちが暮らしていた聚楽第を徹底的に破壊します。秀次一族がこの世に存在していた痕跡を完全に消すかのようなこの破壊劇に秀吉の執念を感じます。
秀吉はなぜ秀次一族をここまで徹底的に弾圧したのでしょうか?通説では拾丸(のちの秀頼)を溺愛するあまり、秀次の存在が邪魔になり殺害したとされています。秀次の一族を根絶やしにして後顧の憂いを断ったのです。
また、「殺生関白」と呼ばれた秀次の残虐な一面を恐れた秀吉が拾丸に災いが降りかからないように対処したともいわれています。
ただし、鉄砲や弓で農民を殺害、刀の試し斬りで数百人を殺害、妊婦の腹を裂いたなどの悪行は、秀次を悪人に仕立て上げるための後世の作り話である可能性が高いと考えられています。
秀次の死後、母のともは出家をしますが後陽成天皇の庇護を受け瑞龍寺を建立しています。もし秀次が本当に悪行を働いた人物であったなら、その母親を支援するでしょうか?また、真田信繁は秀次の娘を側室にしています。
謀反の疑いで処刑されたにもかかわらず、秀次の死を悼む人たちが多くいたことは「秀次悪人説」とは矛盾するのです。
秀次事件の原因については専門家による研究結果がいくつも発表されていて、その中には秀次は関白という地位に固執したあまり秀吉から警戒されその結果身を滅ぼしたとする説があります。
拾丸の誕生以降秀次は精神的に追い込まれ「ノイローゼ」「うつ病」などの精神的な病の症状があらわれます。
湯治などに出かけ治療を試みますが、症状は改善しなかったようです。「拾丸に自分の地位を奪われるのでは?」という恐怖感は裏を返せばそれだけ関白という地位に執着していたということになります。
もし、秀次が関白職を拾丸に譲っていればこのような悲惨な事件は起きなかったかもしれません。
他には、謀反の疑いを掛けられた秀次が自分の身の潔白を証明するため自ら切腹したのだとする説もあります。
秀吉は秀次を追放しただけで命まで奪うつもりはなかった。しかし、秀次は自分の身の潔白を証明するため、無実の罪で自分を陥れた秀吉に抗議をするために切腹という道を選択した。
しかし、秀次が腹を切った青巌寺は、大政所の菩提寺であり、秀吉にとっては神聖な場所でした。命令に背き勝手に切腹したあげく大政所の菩提寺を血で汚した秀次に激怒した秀吉が苛烈な処断を下したのだと主張しています。
この説は矢部健太郎さんの「関白秀次の切腹」という書籍に掲載されています。史料を丹念に分析して導きだした見解には頷ける点が多々あります。
石田三成らによる秀次への詰問から切腹までの経緯が関連史料とともにまとめられているので、秀次事件に興味のある方は一読してみてはいかがでしょうか。
この他にも様々な説が発表されていますが、これといった決定打がないのが現状です。
秀次は本当に謀反を企てたのか?なぜ切腹したのか?一族はなぜ処刑されなければならなかったのか?秀次事件に関する謎はいまだに解明されていません。