犬伏の別れ(いぬぶしのわかれ)昌幸、信繁の入城を拒絶した稲姫(小松殿)
1598年8月豊臣秀吉がこの世を去ります。
秀吉の遺言により政治は徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の有力大名と石田三成、浅野長政、前田玄以、長束正家、増田長盛たち奉行衆による合議制で運営されることが決定しました。
石田三成たち奉行衆は、秀吉の盟友であり秀頼の後見役であった前田利家を頼り徳川家康の専横を牽制しますが、その利家が1599年4月に死去すると力のバランスが崩れ対立が表面化します。
三成に遺恨のあった武断派七武将が三成宅を襲撃する事件が起こります。この事件の責任を負い三成が領国佐和山に蟄居となると政治は家康の意のままに動くようになります。
家康の専制に不満を持った上杉景勝は領国経営を理由に会津に帰国すると、城の普請を行い領内の整備を行いました。
この行動に不審を持った春日山城主堀秀治(ほりひではる)は、景勝に謀反の疑いがあることを家康に報告します。知らせを受けた家康は西笑承兌(さいしょうじょうたい)を会津に派遣して景勝に上洛を求めたのです。
家康の上洛命令に対し景勝は「直江状」と呼ばれる返書をしたため家康の専横を痛烈に批判しました。この書状を見た家康は激昂して会津征伐が決定します。
真田昌幸、信幸、信繁も準備にとりかかり、沼田城主であった信幸が先に出陣します。後を追いかけるように昌幸と信繁も上田を発ち北上しました。
7月21日に下野国犬伏(いぬぶし)に着陣した昌幸の元に密書が届きます。犬伏は現在の栃木県佐野市です。
昌幸に届けられた密書には、前田玄以、長束正家、増田長盛 三奉行の名が連署してあり、家康を討つため石田三成が挙兵したことを知らせる内容でした。
「太閤様の恩義を忘れていないなら秀頼様に忠節をつくすように」と記された密書に目を通した昌幸は、先行していた信幸の元に使いをだし至急犬伏まで戻るよう命じます。
駆け付けた信幸と昌幸、信繁の三者は真田家の身の振り方を話し合ったとされています。密議の内容がどのようなものであったのかはもちろんわかりませんが、真田家の存亡にかかわる重大事なので議論は長引いたようです。
心配した家臣の河原綱家(かわらつないえ)が様子を伺いに行くと、激怒した昌幸に下駄を投げられ前歯が折れたという話しが伝わっています。この逸話が本当かどうかは別にして、三者の間で激しい議論があったことは想像できます。
話し合いの結果、昌幸と信繁は三成方、信幸は家康方となることで決着しました。なぜ親子が敵味方に分かれて戦う道を選んだのでしょうか?
昌幸には家康との遺恨があり、沼田領、吾妻領の領有を認めてくれた秀吉への恩義もあったことから三成に味方をしたとする説が一般的です。また、三成に味方をしたほうがより多くの所領を得ることができると算段したのかもしれません。
信幸と信繁は婚姻関係が大きく関与したと思われます。徳川家の重臣 本多忠勝の娘を妻にした信幸は徳川方に、三成の盟友である大谷吉継の娘を妻にした信繁は石田方にそれぞれつきました。
どちらが勝っても真田家が生き残れるよう、最終的に昌幸が決断をしたと推測できます。昌幸と信繁は陣を引き払い上田に戻り、信幸は家康、秀忠と行動をともにします。
上田に戻る途中、昌幸と信繁は沼田城に立ち寄ろうとしますが、留守を預かっていた稲姫(小松殿)に入城を拒絶されます。
信幸からすでに書状が届いていたのか、鎧を身に着け薙刀を持った稲姫は「この城は伊豆守(信幸)の城であり、たとえ父子の間でも門を開けることはできません」と応じました。
これを聞いた昌幸は「さずが本多の娘である」と言い無理強いをせずに立ち去ったとされています。この逸話は賢夫人と言われた稲姫の気丈さを物語る話しとして伝わっていますが、稲姫はこのとき大坂に居たとする説もあり事実かどうかは不明です。
野営をしていた昌幸の元に使いの者を派遣してもてなしたとする話しや、後日、孫の顔を見せるため昌幸の元を訪ねたとするエピソードも残っています。
犬伏から上田に戻った昌幸の元には石田三成ら奉行衆から多くの書状が届けられました。
・伏見城への攻撃を開始。
・家康に味方をした諸将の妻子を人質にしている。
・昌幸に事前の相談なく挙兵したことへの詫び。
・伏見城の落城。
・細川忠興の居城田辺城への攻撃を開始。
・家康が西上した場合、尾張と三河の間で討取る。
・信濃と甲斐を昌幸に与えるという約定。
以上のような内容が記されており上方の情勢が逐一伝えられています。
また、大谷吉継は「妻子は私が保護しているので安心してください」という内容の書状を昌幸と信繁に送っています。
一方、徳川方についた信幸にも家康から書状が送られ、忠節を賞賛し昌幸の所領は信幸に与えることが記されていました。
生き残るために親子兄弟で袂を分かった昌幸、信幸、信繁!三人の運命を決める関ヶ原の戦いが今まさに始まろうとしていました。